2024年11月10日放送 13:55 - 15:20 テレビ朝日

いま、伝えたいありがとう
〜パラアスリートたちの絆物語〜

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(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

(いま、伝えたいありがとう ~パラアスリートたちの絆物語~)
視覚障がいの柔道夫婦 パリ金をつかんだ絆物語

廣瀬順子さんは15年前に視力・視野の大半を失ったが、その目で日常を送っている。夫・廣瀬悠(はるか)さんも左目はよく見えていないため、右目に残るわずかな視力が頼り。順子さんはパリパラリンピック・柔道女子57キロ級(弱視)で金メダルを獲得。3度目のパラリンピックでつかんだ金メダル。この金メダルは柔道日本女子初。8年前から取材は始まっていた。当時は結婚4か月で新婚だった。目は不自由だが、2人はとにかく前向き。悠さんは視覚障害者柔道の現役選手で、順子さんのコーチを兼任していた。パラリンピックに一緒に出て金メダルをとることが夢だった。2015年12月、柔道がきっかけで結婚。リオパラリンピックには夫婦で出場、順子さんは銅メダル、悠さんは9位だった。東京パラリンピックでは順子さんは5位、悠さんは7位だった。順子さんは小学5年生で柔道を始め、2006年にはインターハイに出場した。19歳の時、10万人に約4人が発症するといわれる難病「成人発症スチル病」になる。一命は取り留めたが、合併症によって視力・視野の大半を失った。順子さんは命が危ない時、やり残したことがありすぎて死んだら後悔すると思った。できていなかったことを生きている間にどれだけ楽しむかを考えるようになったと話した。退院後、22歳で視覚障害者柔道を始める。その先で夢と出会い、夫と出会った。東京パラリンピック後は引退して子どもをつくろうと思っていたが、準々決勝で敗退し、夢は叶わなかった。だから目指したパリの舞台。しかし、国際パラリンピック委員会が行った出場枠の見直しによって悠さんは障害の程度が基準から外れ、参加資格を失ってしまった。コーチに専念した悠さんと共に順子さんは課題を見つける。東京パラリンピックまでの得意技は一本背負いだったが、大会が終わってから相手に研究され、一本背負いがかからなくなった。悠さんはライバル選手を動画で研究。その特徴をコピーし、稽古相手となった。順子さんは対戦相手に合わせて大内刈りと体落としに磨きをかけた。パリパラリンピック当日、最大の山場は準決勝。相手選手に腕を取られたが、降参して負けるより、折れるまで我慢しようと思って耐えたという。その後、大内刈りで勝利。その後の決勝では体落としを決め、一本勝ち。金メダルを獲得した。10月下旬、2人はお互いへの気持ちをビデオレターにした。順子さんは悠さんのおかげで毎日楽しく過ごせている。一生一緒にいてほしいというメッセージを送った。

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悠さんは金メダルをとってもらって自分がコーチとして最高のメダルをとってくれた。金メダリストしか見られない景色を見せてくれたことが1番感謝している。これからもよろしくお願いします、ありがとうというメッセージを送った。夫婦円満の秘訣について、悠さんはやってもらったことに「ありがとう」をお互いが言うことだと話した。

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密着8年!涙と笑顔の成長物語 パリ金 車いすラグビー 師弟の絆

9月、渋谷の真ん中で多くの人が車いすラグビー日本代表の快挙を祝った。日本代表最年少の橋本勝也さんは先輩たちに愛されるチームのムードメーカー。そんな橋本さんにとって特別な存在が日本代表のエース・池崎大輔さん。橋本さんは先天性の四肢欠損で手の指は2本ずつ。学生時代は思春期だったこともあり、周りと違う自分の姿を自分自身が認められなかったという。2016年12月、橋本さんは地元・福島で行われた車いすラグビーの体験会に参加。車いすラグビーの楽しさに一気に魅了された。2017年4月、日本代表の合宿が福島で開催。見学に招待された橋本さんは池崎さんと出会う。日本のエースとして世界で活躍していた池崎さんは橋本さんにとって雲の上の存在。2017年12月の日本選手権で橋本さんは池崎さんと対決。世界トップレベルの凄さを肌で感じたことが橋本さんの心に火をつけた。2018年、史上最年少の16歳で日本代表に選出。1チーム4人でプレーする車いすラグビー、橋本さんは池崎さんと同じ点取り屋のポジション。橋本さんは当時を振り返り、怒られてばかりだったと話した。当時はフィジカルやスタミナなど課題が山積み、世界で戦えるレベルではなかった。東京パラリンピックで日本は銅メダルを獲得したが、橋本さんは3位決定戦に出場することはなかった。試合後、池崎さんは橋本さんに次はお前の番だ、期待しているから頑張ってここまで来いと声をかけた。東京パラリンピックから半年後、橋本さんは公務員の仕事を辞め、競技に専念。地元・福島だけで練習するのではなく、東京へ週の半分以上、自ら運転して通うようになった。さらに取り組んだのが肉体改造。努力の成果は徐々に表れ、国際大会での活躍が増えていった。7月の日本代表会見で橋本さんはチームを引っ張っていける存在にならないといけない。3年間やってきたことが間違いではないと証明したいと話した。

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パリパラリンピック当日、橋本さんは準決勝までにチーム最多の60得点を記録。日本を初の決勝に導く活躍を見せる。決勝の相手はアメリカ。試合前に池崎さんは橋本さんに頼んだぞと声をかけた。橋本さんは次々と得点を決め、48-41で日本が勝利。悲願の金メダルを獲得した。池崎さんは勝也がいなかったら金メダルはとれなかった、それだけ大きな存在だったと話した。橋本さんは池崎選手が自分自身にとっては1番欠かせない存在だったと話した。

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パリパラリンピック
パリで2大会連続 金 全盲のスイマー 五輪メダリストと垣根を超えた友との絆

パラリンピック連覇を果たした全盲のスイマー・木村敬一さん。共に歩んだのは同い年の友人・星奈津美さん。現役時代、ロンドン五輪とリオ五輪の200mバタフライで銅メダルを獲得した。2023年1月、木村さんから指導依頼を受け、全てが始まった。木村さんが病気で視力を失ったのは2歳の時。それでも両親からの勧めもあり、幼い頃から多くのことに挑戦した。中でも夢中になったのは10歳の頃に始めた水泳。それから泳ぎを磨き、東京パラリンピックで金メダルを獲得した。そして金メダルのその先の挑戦を考えた。これまで木村さんは肉体を活かしたパワーのある泳ぎをしていた。しかし、30代に入り、パワーだけに頼ることは難しくなっていた。そこで大幅なフォーム改造を決断。頼ったのは友人であるオリンピックメダリスト・星さん。戸惑いもあったが指導を引き受け、すぐに課題を見つけた。

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全盲のスイマー・木村さんはパラリンピック連覇のために友人であるオリンピックメダリスト・星さんにコーチを依頼。一度身についたフォームの修正は簡単ではない。2歳の時から全盲の木村さんはお手本となる泳ぎを見たことがない。フォーム改造が上手く進まない中、世界選手権では年下の海外選手に敗れ、2位となった。今年3月に行われたパリパラリンピック代表選考会。星さんは壁の位置を知らせるタッパーとして木村さんを見守った。木村さんは課題の後半で失速。パリへの切符はつかめたが、自己ベストよりも2秒近く遅いタイムだった。パワーを武器にしてきた木村さんはスタートから力みがちだった。そのため、星さんは張り切って出ないようにすることが大事だと伝えた。この教えはかつて星さん自身が平井伯昌コーチから授かったものだった。妊娠中だった星さんはプールに通えなくても動画を見てメッセージを送った。パリパラリンピック2か月前、星さんが男の子を出産した時、木村さんはお祝いと感謝のメッセージを送った。

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パリパラリンピック当日、指導してきた星さんは生後2か月の子どもを連れて現地で観戦。木村さんは男子100mバタフライ(視覚障害)決勝で金メダルを獲得。自己ベストを更新し、大会新記録を出した。星さんは木村さんに向けた手紙を読み、素晴らしい経験をさせてくれてありがとうと話した。木村さんもありがとうと感謝した。

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パリで起きた奇跡の“声援” 松岡修造が迫る母娘の絆

カヌー選手・瀬立モニカさん。パラリンピックはリオ8位、東京7位。パリではメダルを目指していた。一緒に戦ってくれるのは母・瀬立キヌ子さん。2020年、モニカさんは沖縄で合宿中だった。モニカさんの胸から下は麻痺しており、動かせない。笑顔の力を授けてくれたのはキヌ子さんだった。看護師のキヌ子さんに女手ひとつで育てられたモニカさん。カヌーとの出会いは中学2年生、地元・東京のカヌークラブに入る。しかし、高校1年生の時、体育の授業で脊髄を損傷し、歩けなくなった。車いすでの生活に慣れず、苛立ちをぶつける相手はいつもキヌ子さんだった。しかし、「笑顔は副作用のない薬」が魔法の言葉となった。事故から半年後、高校に復学。さらに高校2年生の7月に再びカヌーに挑戦する。あまりの気持ち良さに、その場でパラリンピックを目指すと宣言。転覆しても自力で脱出できるように落ちる練習から始めた。苦しい時でもやり抜けたのは「笑顔は副作用のない薬」という言葉があったから。気がつくと笑顔から生まれた人の輪が広がっていった。9月のパリパラリンピック、結果は6位。パリが始まる前まではこれで最後だと思っていたが、たった1分のレースで全部吹き飛んだという。観客からはモニカコールが送られた。実はキヌ子さんがお菓子を配って娘の応援を呼びかけていた。フランスの応援団長にハッピーターンを渡すと、フランスの人たちをまとめてくれたという。キヌ子さんはブリスベン大会(2032年)までやったらどうと言っている。キヌ子さんは私も成長できたから「ありがとう」と伝えたいと話した。一方、モニカさんはキヌ子さんに大好き、この世で一番愛していると伝えた。

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パリパラリンピック代表の「第一歩」

パラリンピックを終え、再び歩み出した選手たち。陸上の辻沙絵さんはパリでは2種目で入賞を果たした。辻さんは義手や義足を製作・販売する会社に就職していた。同じ障害を持つ子どもや親をサポートしたいなどと話した。ボッチャ混合団体で銅メダルを獲得した杉村英孝さんはボッチャの知名度100%を目指して普及活動をしたいと話した。小学校を訪問して体験会を開くなど、誰でも楽しめるボッチャの魅力を広めている。

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(エンディング)
エンディング

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