- 出演者
- 古谷敏郎
オープニング映像。
気象情報を伝えた。
来年、放送100年を迎える。元NHKアナウンサー・秋山和平さんは現在89歳、2年前までスタジオでラジオ番組を制作していた。秋山和平さんは「『私の日本語辞典』という番組を作ったが2022年3月までだった」とコメント。秋山和平さんは昭和33年にNHKに入局。同期のアナウンサーは11人。のちに俳優になった野際陽子もその1人だった。当時のアナウンサー教育を紹介。
アナウンサーの仕事はスポーツ、芸能、現場中継など多彩に広がって行った。ニュースをどう伝えれば良いのか、そのきっかけの1つが昭和49年に始まった「ニュースセンター9時」、キャスターはアナウンサーではない記者出身の磯村尚徳。この登場はアナウンサー達にショックを与えたという。秋山和平さんは「アナウンサーがキャスターをするとき、きちんと伝えよう正確に伝えようと。生き生きしていない、アナウンサーは」とコメント。「冷たくて、官僚的で、一種の権威主義的な話し方」と新聞やメディアから批判の声があがった。
東京のアナウンサー達を中心に1975年「語りことば委員会」を結成、全国のアナウンサーから意見を募り自分たちの課題について議論を始めた。1つがイントネーション、抑揚のつけ方だった。秋山和平さんは「現代、われわれが使っている共通語のイントネーション、自然なイントネーションと違っているような読み方をしている人もいる」とコメント。1980年、日本語の乱れが言われた時代だった。当時の文部省や研究機関は「日本語音声」の研究プロジェクトを立ち上げて、科学的な言葉の研究に乗り出しNHKアナウンス室も参加した。ニュース原稿を改善。伝え方の方法論はその後、日本語センターなどの活動を通してビジネスマンや教員、朗読に取り組む人たちにも広がっていった。秋山和平さんは「私の日本語辞典」を31年に渡って担当した。松平定知アナウンサーの映像。
ラジオ第2放送「私の日本語辞典」の出演者は日本語研究者だけでなく、俳優にとってのセリフ、作家にとっての文字、職人ならではの口調など、様々な分野のゲストがその世界にまつわる日本語論を繰り広げた。31年間に登場したゲストは400人。秋山和平さんは「地道にこの日本で日本語に関連した仕事をしながら立派な成果をあげてこられた方は、ラジオ音声で一度はホンネをお話しいただきたいというのが根本にあった」とコメント。俳人・夏井いつきさんをゲストに迎えた放送では季語テーマ「消え行く季語を求めて」だった。詩人・宗左近(東京大空襲に経験をつづった詩集「炎える母」など)を迎えた回「わが絆のことば」のハプニングを紹介。
3枚おろしのアジを、3等分くらいに削ぎ切りにしていく。塩こしょうをして、小麦粉をふる。小麦粉をまぶすとフライパンで焼くときにアジの皮が剥けにくいという。ミニトマトを2等分にする。フライパンにオリーブ油をひき、皮を下にしてアジを焼く。周りが白くなりだしたらひっくり返して焼く。アジをあまり動かさずに焼くとうまみをとじ込めふんわり仕上がるという。リーフレタス、ベビーリーフを皿に敷いてトマトを散らし、焼いたアジをのせオリーブ油をかけて完成。
エンディングのあいさつ。