- 出演者
- 桑子真帆
先月、ある国立病院の元職員から手紙が届いた。記されていたのは終戦後に性暴力を受けた女性たちに密かに行われていた中絶手術。差別や偏見が女性たちを苦しみ続けていた。
オープニング映像。
93歳の山本壽美子さん。父親が鉄道会社の社員だった山本さんは家族で旧満州に渡った。当時満州には開拓団が送り込まれ、300万人以上の民間人が暮らしていた。終戦直前に旧ソ連軍が侵攻し、女性たちの性暴力が相次いだ。山本さんの幼馴染の家にもソ連兵が押し入ってきたという。終戦の翌年、民間人の引き上げ事業が本格化。性暴力を受け妊娠した女性たちへの中絶手術がはじまった。山本さんは国の施設で受けた問診の様子を鮮明に記憶していた。当時の記録では舞鶴港で問診を受けたのは13~55歳の女性、山本さんが帰国した前後の3か月で13人の妊娠が確認されていた。女性たちは国立舞鶴病院に入院、ここで中絶手術が行われていた。当時、日本での中絶は原則違法とされていた。手術に関わった医師・相馬廣明さんが取材に応じた。終戦直後は医学生だった。相馬さんがいたのは二日市保養所。自発的に中絶手術を行っていた。当時、性暴力による妊娠を苦に自殺する女性が相次いでいた。医師たちはこうした女性を救おうと人道的な目的で手術を行っていたという。翌年、国立病院の産婦人科の医師になった相馬さんは自らも手術を行った。取材で少なくとも全国5か所の施設で中絶手術が行われていたことが分かった。しかし、公的な記録はほとんどなく、性暴力を受けた女性たちが手術について語ることはなかった。中には手術を希望しない人もいた。
性暴力にあい手術をうけた女性を15年支援してきた元福祉相談員の河島悦子さん。福岡の師範学校を卒業後、満州で小学校の教員をしたいた女性は20代前半で独身だった。ひきあげの際に開拓団からソ連兵や中国人に引き渡たされたという。繰り返し性暴力を受け、日本に戻る船から身を投げようとしたとき、同じ開拓団の女性から「汚らわしい、そばに寄らないで」と言葉を投げつけられた。こんな人たちのために死んでたまるかと思ったという。引き揚げた後、近くの国立病院に運ばれた女性は妊娠の自覚はなかったが、手術台にのせられ体の中に器具を入れられたという。
各地の国立病院などで繰り返されていた戦禍の中絶手術に国はどう関与していたのか。国も人道目的を掲げ手術を主導していた。中絶手術には別の狙いもあった。元福祉相談員の河島さんは当時の上司が国の思惑を語っていたという。一滴も外国人の血は本土に入れまいという合言葉があったという。手術に関わった別の医師も異民族の血に汚れた児の出産を水際でくい止める必要があるとしていた。アメリカでも禁止されていた中絶手術、日本を統治下においていたGHQはどう対応したのか。GHQの幹部だったサムス大佐は生前研究者に中絶手術を容認していたと明かした。終戦後、日本は性暴力や買春などによってアメリア兵の子どもを妊娠する女性が相次ぐ。GHQは検閲によって混血児という言葉を封じ込めた。手術を容認した背景に混血児の問題そのものから目を背けさせる狙いがあったのではないか。手術人数は約2000人もいた。
女性の戦争被害について研究している佐藤文香さんは、人道目的のための手術、人類愛という医師の言葉、子どもは子どもで産みたかったという女性の声にギャップがある、国は被害者のためだとして混血児の誕生を防止したかった、背景には敵国の男性の子どもを産んだとしても不幸になるという考えがあった、と話した。旧優生保護法で中絶手術の問題でも不幸になるに決まっているという決めつけがあった。厚生労働省に中絶手術の概要・女性の同意の有無について質問したところ、相当の時間が経過しており資料の所在もい含め確認されていないため回答が難しいとのこと。戦時の性暴力は世界中で繰り返されている。女性が性暴力から保護されるべきと初めて明記されたのは1949年のジュネーブ条約。90年代になり、国際刑事裁判所などができたことで戦争犯罪・人道に対する罪の対象として裁かれるようになった。佐藤文香さんは私たちが立ち返るべきは、戦時でも平時でも加害者が見方でも敵でも、被害者が女性でも男性でも意思に反して行われる暴力は性暴力だと話した。
妊娠の自覚がないまま手術を受けたという女性を長年支援した河島悦子さん。女性がふるさとに戻ってきたのは50代になってからだという。教員の職を捨てて、それまで東京に逃れていた女性は自暴自棄の暮らしの中で薬物に手を出すこともあった。「生きていることが疎ましかった」と話していたという。被害を訴えることもせず、苦しみを抱え込み続けた女性は1人で最期を迎えた。
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