- 出演者
- 野上慎平 坪井直樹 依田司 林修 山本雪乃 山崎弘喜 住田紗里 斎藤ちはる 森千晴 武隈光希 三山賀子 舩橋沙貴
(中継)千葉・匝瑳市・Farmいとう。千葉県匝瑳市でいま収穫の最盛期を迎えているのが葉っぱがちぢんでいるのが特徴のちぢみ小松菜。農家おすすめの食べ方は「シラスとちぢみ小松菜の炒めもの」「ちぢみ小松菜と桜えびのチヂミ」など。
モデル・俳優・長谷川京子さんにインタビュー。この日の長谷川さんの仕事は大丸松坂屋百貨店が運営するファッションサブスク・アナザードレス主催のデザインコンテストの審査員。リメイクすることで「洋服の寿命を延ばす」ことを推進する試み。長谷川さんは高校3年生の時、ファッション雑誌「CanCam」の専属モデルとして芸能活動をスタート。その後、ドラマ出演をきっかけに大ブレイクし「ハセキョー」の愛称で親しまれている。現在は下着ブランドのプロデュースも手がけ、自らモデルも務めている。現在46歳、スタイル維持のため常に努力しているという。プライベートでは2008年にポルノグラフィティ・新藤晴一さんと結婚するが4年前に離婚。2人の間の1男1女は長谷川さんと暮らしている。子どもたちはファッションに興味を持つ年頃だという。
安藤サクラさんがトミー・リー・ジョーンズさんらと出演する飲料メーカーの新CMが公開された。問題「安藤サクラが同じだと勘違いしていたことは?トラとライオン、柄本明と忌野清志郎、病院と美容院」。
テーマは「江戸時代を代表する高僧・祐天上人」。祐天寺といえば、渋谷から東急東横線で3駅という近さにもかかわらず、住みやすい街として知られている。地名の由来ともなっている祐天寺は目黒の念仏道場として1718年に建立された。ここに祀られているのは祐天上人という江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧で、徳川将軍家も信仰を寄せたと言われている。8代将軍・徳川吉宗との間にある逸話を紹介。祐天寺の境内には徳川将軍家から贈られたものがたくさんある。仁王門は5代将軍・綱吉の養女・竹姫から寄進された。境内にある鐘楼と梵鐘は6代将軍・家宣の正室・天英院が寄進。阿弥陀堂とその中の阿弥陀如来坐像も徳川家から寄付されたもの。祐天寺の境内には徳川将軍家から贈られたものが間近で見られる。徳川将軍6人のお墓がある菩提寺・増上寺の最高位である法主を務めたのが祐天上人。
祐天上人の生涯を記した江戸庶民から人気を博した読物「祐天僧正御一代記」によると、祐天上人は福島県で生まれ、12歳の時に増上寺のお坊さんであったおじを訪ねて上京し、その後増上寺で修行。祐天上人が修行を始めた頃はお経が覚えられずに苦労したという。当時、僧侶としては優秀じゃなかったという祐天上人は千葉・成田山で21日間の断食修行をした。夢に不動明王が現れ「剣を飲めば愚かさの原因である悪い血が流れて知恵を授かる」と告げられ、その通りにした結果、頭脳明晰になったと言われている。祐天上人は19歳の時に師匠である檀通上人に随行して諸国の寺院を巡り修行。この修行時代に各地で才能を発揮。それを記した書物が発売されたことで祐天上人の名が一気に広まった。話を聞きつけた将軍家からも5代将軍の母・桂昌院や6代・家宣、大奥の人々にも支持された。徳川家から庶民まで絶大なる支持を集めた祐天上人は39歳で増上寺に戻り、その後トップにまで上り詰めたが、地位におごることなくお布施や名号を授け、頂いた浄財を鎌倉の大仏や当時荒廃していたお寺を直したと伝えられている。
祐天上人には江戸のゴーストバスターというもう一つの顔があった。有名なエピソードが「累ヶ淵」。その話を伝えるのが「かさね塚」と書かれた石碑。「累ヶ淵」を紹介。「累ヶ淵」の話は読み物といった書物や歌舞伎、落語などの題材になったことから、歌舞伎役者らによって石碑が建立された。歌舞伎や落語などの上演前には累供養をする習慣が今でもある。
きょう2月20日は「歌舞伎の日」。初めて歌舞伎のルーツとされる踊りが披露された日にちなんでいる。いま銀座にある歌舞伎座は明治22年にできた。外観は洋風で中に入ると和風の建物だった。歌舞伎の語源「歌舞く」とは勝手気ままなふるまいや異様な身なりをするという意味がある古語。問題「新宿『歌舞伎町』名前の由来は?劇場誘致計画、焼失した劇場跡地、血吸うの下手」。
問題「新宿『歌舞伎町』名前の由来は?劇場誘致計画、焼失した劇場跡地、血吸うの下手」。正解は「劇場誘致計画」。銀座の歌舞伎座は明治22年にできたが、それ以前は木挽町という江戸城の建設に関わった人が多くいた場所にあり、そういう人を目当てに芝居小屋があった。今の日本橋、人形町の辺りにもあった。新宿・歌舞伎町は昭和23年に名付けられた。戦後の新宿は空襲によって焼け野原になっていた。戦前の新宿には伊勢丹や紀伊國屋書店、多くの映画館があり賑やかな街だった。今の歌舞伎町のあたりは女学校と住宅が並ぶ静かな街だった。戦後、焼け野原となってしまった街の復興計画が立てられ、街の名前は歌舞伎町と変更された。計画の中心は歌舞伎劇場の誘致だった。建築規制や金銭面の問題で劇場誘致は頓挫してしまったが地名だけは残った。
ロシア・プーチン大統領が米ロ首脳会談に前向きな姿勢を明らかにした。朝日新聞によると、プーチン大統領は訪問先のサンクトペテルブルクで「ドナルドと久しぶりに会いたい。親密な関係ではないが、彼が前回大統領だった時は両国の関係について議論した」と話した。一方で、「ただ将来を語るだけでは不十分で何らかの成果が必要だ」と強調。