- 出演者
- 浜田雅功(ダウンタウン) 佐久間みなみ 白井一幸 能見篤史 東尾理子 東尾修 田口壮 辻発彦 池田親興 西山秀二 星野伸之 佐々木主浩 佐々岡真司 元木大介 飯田哲也 銀次 山本昌 前田幸長 山崎武司 清水隆行 谷繁元信 成瀬善久 五十嵐亮太 尾花貴絵 関本賢太郎 片岡篤史 阿波野秀幸 糸井嘉男 内川聖一 杉谷拳士 小久保春菜 細川愛倫 上田剛史 黒木芽依
今回12球団に加え、80年代に発売されたファミスタで当時容量の関係から西武以外のパ・リーグ5球団がまとめられて出来た球団レイルウェイズとフーズフーズ枠として白井一幸さん、阿波野秀幸さん、星野伸之さんが出演。
山本昌さんは中日時代のプロ初先発のカープ戦の際の6回にこの日3回目となるデッドボールを中日側が受けたことで中日ベンチ総出の乱闘が発生し、2人の選手が退場処分となった。また乱闘が収まってから中日の星野監督は審判にぶつけた選手とぶつけられた選手でタイマンをさせろと要求していたという。このほか当時の中日の島野育夫コーチが乱闘のために金属製のスパイクを履いていたことなどを話した。
1994年4月13日の広島-ヤクルト戦で、佐々岡真司の相手はこの年ヤクルトに入ったジェラルド・クラーク。事件が起きたのは4回、デッドボールを受けたクラークは佐々岡めがけて一直線。豪快な首投げでグラウンドに叩きつけられた佐々岡。この一発で佐々岡は流血。クラークは退場処分となった。ベンチに帰ったら当時の三村監督に「まだ行くじゃろ?」と言われたという。そのときキャッチャーの西山がちょっと遅れてたことにたいしてクレームを言ったが、西山は「徐々に歩いていく人なら間に合う。ダッシュは絶対追いつかない」などと反論。この乱闘を令和の野球キッズが一刀両断。昔は「バッターに当てろ」のサインはあったといい、絶対中日はあるなどと述べた。前田さんは、サインもあったが当時金田監督が「ぶつけろ!」と言っていたという。だが4回なげて当たらなかったという。辻さんは入団して間もない頃、金田監督の「当てろ~」という声が聞こえ主審に話し、注意を受けていたという。東尾さんは、見方がやられたら仕返ししてやるということでやったという。だが試合に勝つという条件があるという。故意にやったのは1回だけだという。娘の理子は「165も当たる?」などと指摘。田口さんは、先輩から聞いた話で本当にコントロールが良かったというので絶対に目を合わさず当てられる人だという。東尾さんは「バッターも避けなきゃダメ!」などと話した。
明石家さんまと日本の社長、浅草ラスボスおばあちゃんの番組宣伝。
レッドカーペットの番組宣伝。
パパがプロ野球選手の娘を紹介した。尾花さんは「王貞治さんからお年玉をもらった」、細川さんは「五十嵐さんの娘と小中学校で同級生」、阿波野さんは「投げない投手が馬券を買いに行く」、東尾さんは「ゴルフ場の会員権を買ってくれた」などと話した。
1986年6月13日、西武・近鉄の一戦。東尾が対するは近鉄の主砲デービス。デッドボールを受け、デービスが東尾に殴りかかった。両軍入り乱れての大乱闘。この乱闘でデービスは退場処分となった。この大乱闘に令和の野球キッズは「東尾を殴らないでくれ」「グラブを盾にしているのがヤバかった。物を大切にするから俺だったら受け入れる」等と話した。
白井さんは新人時代の乱闘でブーマー選手が助けてくれたという。関本さんはヤクルト戦で3個目の死球を喰らった際に、投手が代わっていたので捕手に怒ろうとしたら捕手も代わっていたという。
1996年5月1日の中日vs巨人。山崎さんは相手のガルベス投手に顔面付近に投げられて乱闘になった。山崎さんによると、実は前のイニングで中日の投手が相手の落合博満さんに当てていたといい、山崎さんはその後のイニングの先頭打者だったという。この乱闘をレフトから見ていた清水さんは「距離があるから空気が全然違う」などと話した。またこの乱闘の映像を見た小学生からは「くだらない」や「乱闘しに行って最終的に負けてたのが逆にダサい」などの声が聞かれた。
山本昌さんいわく昔の中日には罰金制度があり、違反するたびに払う金額が増えて最終的には100万円までいくという。山崎さんは試合前の練習の怪我で広島戦を欠場したことがあり、その試合で勝利投手となった大野豊さんが「山崎くんいなくて助かった」などと発言。これを聞いた星野監督に「100万円持って来い」と言われたという。横浜も罰金があったというが、佐々木さんいわく金額は5000円だったという。
かつてのプロ野球には攻守交代練習というものがあり、9回まで永遠やるという。また元カープの西山秀二さんは北別府投手の球を受けた際に音を出さずに捕ったことで1球投げただけでキレて帰ってしまったという。また翌日謝ってまたキャッチングをした後からは口で「パーン」と言って取るよう要求されてずっとそうしていたという。この他生活習慣を直すために朝一度グラウンドに言ってホワイトボードに今日の目標を書いてから寮に戻って先輩に挨拶するなどの練習を紹介した。
何度こすられても色褪せないプロ野球の歴史的映像遺産。関本賢太郎・下柳剛に怒られる。事件が起こったのは2007年10月。阪神の先発は3年連続の2桁勝利がかかった下柳。セカンドを守るのは10歳年下の関本。ミス連発にグラブを叩きつけ怒りを顕にする下柳。1アウト満塁に緊張が走る。そして打球は二遊間へ。またしても下柳がグラブを叩きつけた。続いては飯田哲也・スーパージャンプ。スタンド目掛けて一直線に伸びていく打球。するとセンターを守っていたヤクルト・飯田が高さ4mのフェンス最上部に届く大ジャンプ。ボールには僅かに及ばずタッチすることができなかったが、野球ファンに鮮烈な印象を残した。このスーパープレーに野球キッズは「ケガを考えずボールに集中しているプレーが選手の鑑」等と話した。続いて池田親興・ホーナーに1日3本塁打。バリバリのメジャーリーガーとして来日したばかりのボブ・ホーナー相手に日本野球をナメられては困ると立ちはだかった池田だったが、同じバッターから1日3本のホームランを打たれて日本中を騒然とさせた。野球キッズは「え…同じところ投げすぎ」等と話した。関本が下柳に怒られた事件はランナーが内川だったという。内川は「セーフと言っているが、僕もアウトだと思ってた。下柳さんが投げてるのを見た瞬間に悪いことしたな…って」等と話した。
片岡篤史のフルスイング。日本ハム×西武の試合。松坂大輔のデビュー戦で片岡篤史さんは対戦。平成の怪物と8年目のベテランの対決。片岡篤史さんは豪快な空振り三振。星野伸之さんは中嶋聡捕手に素手で捕球されたという。星野さんはまっすぐも遅いと片岡篤史さんがいう。片岡篤史さんの松坂の空振りは東尾さんの監督時代。杉谷さんは、当時8歳で、ライオンズファンで、ざまあみろ片岡と叫んだとのこと。
愛すべきキャラクター列伝。五十嵐亮太選手は、東京ヤクルトスワローズ時代、自転車で追っかけてくるオジサンがいたという。バスを追いかけてきたとのこと。ホテルまでつけてきたという。元木大介さんは、宮崎のファンに、長嶋さんがヨシオという名前をつけたというエピソードを披露。辻発彦さんは替え歌でやじられたという。田口さんは、自分の名前で野次られたという。白井一幸さんは、お見合いしたらしいなあと野次られたとのこと。ほんとに見合いをしていたという。心得の本を糸井さんは漢字を飛ばして読んでいたという。糸井さんはピッチャーで入団。ベースカバーの練習のとき、指示と逆に走っていたとのこと。槙原寛己さんはいたずら好きだったという。杉谷さんは、パンツにサロメチールを塗りたくられたという。入来祐作選手は清原さんから塗られてたという。
セ・リーグとパ・リーグ悲しすぎる格差。現在は人気も実力も拮抗している。1975年のデータでは、セ・リーグの平均入場者数は2万4300人、パ・リーグは8200人だった。セ・リーグは巨人戦を中心に全国生中継されていた。パ・リーグの中継は年に数試合のみだ。平均年収の差は2005年で1000万円だったという。千葉ロッテマリーンズの前田さんは、試合中に「男女7人秋物語」の撮影が行われていたという。
ロッテ本拠地「川崎球場」は、客が少なく麻雀や流し素麺などをやっていたという。「男女7人秋物語」の撮影でも球場が使用されていて、前田さんが投げてる試合がドラマに使用され、地上波初登場はドラマだったという。広島カープは当時広島市民球場で、まずベテランが投げたくないという人が必ずいたという。ブルペンは2つあるが、間隔が狭すぎて1人しか投げれないという。関本さんも駆け出しの頃広島市民球場に試合に行っていたが、下水管が破裂してるのも当たり前だったりが日常茶飯事だったという。裏にスイングルームがあるが、クーラーが読売巨人軍の寄贈、扇風機がヤクルトの寄贈だったりと、カープ側が用意しないといけないものをセ・リーグの有志が寄贈して成り立ってたという。杉谷さんは少年のとき、月に2・3回は新聞社の方から日本ハムのタダ券が回ってきて観に行ったらガラガラで、ファイターズの選手はボールをスタンドに投げ込んでくれるので1日3球持って帰れるくらいだったとい。その時はファンじゃなかったので、練習に使っていたという。
佐々木さんは、セ・リーグは試合ごとに賞金が出ていたという。ご飯に行くと先輩が奢ってくれるため若い頃は給料を使ったことないという。中日ドラゴンズは、タニマチさんが名古屋に沢山おり、飯を沢山食べると喜ぶため、ご飯1.5kg・鰻4尾を出され死ぬ気で食べたという。山崎さんは、シーズンオフになると野球選手はゴルフをするのでロッカーにゴルフコンペの一覧があったという。ゴルフは自分でお金を出すものじゃないと思っていたという。一覧に車代が書いてあり、先輩は高い所を選んでいたという。だが低くても10~20万円もらえたのでそれで2軍時代のオフは過ごしていたという。パ・リーグはそういう話ばかり聞くという。
セ・リーグでは巨人は別格だという。食堂は「サロン」と呼び、サロンにはうどん・そば・おにぎりも色んな種類があり、うな重やステーキ重、自分じゃ買わないフルーツが置いてあったという。当時色んな副賞があり、清水さんは東京ドームで一番最初に二塁打を打った時、第一2塁打賞が出て、商品がホットプレート。1年間2番で出てると5~6枚もらえたという。そのためあの時期が一番人に「ホットプレートいる?」と聞いていたという。成瀬さんは、ヒーローインタビューでお金がもらえるのかと質問。それは阪神だという。巨人は、球場の練習で記者がぶら下がりできたときに3~5万円貰っていたという。パ・リーグの食事環境について、近鉄は球場での食事や飲み物は全部有料で給料天引きだったという。