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太平洋戦争の開戦から2か月後、瀬戸内の海底炭鉱で水没事故が発生し183人が死亡した。犠牲者の多くは日本が植民地支配をしていた朝鮮半島の出身だった。事故から80年以上が経ち、ようやく遺骨の収集に向けた本格的な調査が始まった。動いたのは国ではなく市民団体である。山口県屈指の工業都市・宇部市。発展の礎となったのは石炭産業である。炭鉱の多くは海の底を掘り進める海底炭鉱だった。その1つが「長生炭鉱」である。長生炭鉱の跡地には「ピーヤ」と呼ばれる2本の排気口が当時のまま残っている。市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の共同代表・井上洋子さん。水非常とは海底炭鉱の水没事故のことである。刻む会は希望に応じて、長生炭鉱の勉強会を開いている。当時、長生炭鉱があった場所では海底から47mより浅い場所の採掘は法律で禁止されていた。しかし長生炭鉱は最も深い場所で37mしかなく、違法な操業をしていた。1942年2月3日、天井が崩落し海水が流入して構内にいた183人が死亡となりそのうち136人が朝鮮半島出身者だった。炭鉱跡の近くに刻む会が立てた追悼碑があり「強制連行」と刻まれていた。長生炭鉱は「募集」により朝鮮半島から1258人の労働者を集めていた。朝鮮半島で働いた朝鮮半島出身者の多くは、現在の韓国南部の人たちだった。韓国遺族会の会長であるヤン・ヒョンさんは多くの遺族から話を聞いてきた。遺族のウ・チョルホさんは叔父が朝鮮半島に行ったいきさつを父親から聞いたという。石炭と戦争の関係を物語るものが残されており、戦時中に国が作成したポスターだった。刻む会の勉強会では最後に、ある朝鮮半島出身者の手紙を紹介していた。手紙の主は今も海底に眠っている。
刻む会は国に何度も長生炭鉱の遺骨の調査を要望してきた。国は朝鮮半島出身労働者の遺骨について、所在が明らかな場合に限り調査の対象としている。ならば所在を明らかにしようと刻む会は去年、独自に遺骨収集に向けた調査を始めた。協力を申し出た伊左治佳孝さんは沈没船や海底洞窟などの調査をしているダイバーである。伊左治さんが乗った船がピーヤに近づき、ピーヤの内部へ潜水した。刻む会は1991年の結成以来、事故があった2月3日に近い日に韓国から遺族を招いて追悼式を行っている。父親を亡くしたチョン・ソッコさんは以前は毎年のように追悼式に参加していた。中国のチョンさんに話を聞いていくと、同じ話を繰り返し認知症が進行していた。刻む会は坑道の入口「抗口」を掘り起こす作業に着手した。クラウドファンディングなどで寄せられた1200万円を資金に、抗口から坑内に入ることを目指す。そして抗口が見つかった。
82年ぶりに開いた長生炭鉱の抗口。ダイバーの伊左治さんが内部を調査していく。目指すのは抗口から350m付近で坑内にいた人の証言から遺骨が多くあるとみられている。しかし坑内は濁りがひどく、金属や木材などが散乱していて200m付近までしか進めなかった。犠牲者の遺族でもない井上さんがなぜこんなに長生炭鉱の遺骨収集に力を入れるのか。その理由を訪ねると、長野県天龍村に案内された。そこは井上さんの故郷である。さらに平岡ダムへ向かうこととなった。1940年から始まった平岡ダム建設には朝鮮半島や中国などから多数の労働者が動員された。工事中に亡くなった外国人の数は現在も調査中で、全容はわかっていない。平岡ダム建設工事犠牲者の火葬場跡もあった。外国人の多くはここで火葬されたが、薪の不足により焼ききれず谷に投げ捨てられたこともあったという。
今年4月、潜水調査に2人の韓国人ダイバーが参加した。坑道内の調査は今回が3回目となる。坑道内の調査は3日間行われ、遺骨の収集という当初の目的から坑道の状態を調べることに重点が置かれた。調査の結果、抗口から200m付近が大きく崩れていて遺骨があるとみられるエリアに進むのは厳しいことがわかってきた。遺族たちは事故のあった現場に向かった。刻む会はピーヤからの侵入の妨げとなっていた障害物の撤去を始めた。海底に眠る遺骨に光を当てるため調査は続く。
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- 長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会
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