- 出演者
- 藤森慎吾(オリエンタルラジオ) 石原良純 小泉孝太郎 高嶋ちさ子
歴史あるプラチナファミリーのお宅でお宝を鑑定。三重県松阪市で、トップを争う豪商だったプラチナファミリーが江戸時代から伝わるお宝を持っているという。訪ねたのは、13代当主・竹川裕久さんの自宅。300年以上の歴史がある建物で、総敷地面積は約400坪。かつては、周囲も合わせて約1000坪の敷地だったという。竹川家は、幕府御用の為替を行っていたという。一時的に多くのお金を預かり、貸付などに運用して多額の利益を得ていた。当時、呉服商で財を築き、江戸・大坂・京都に10数店舗を展開していた。そのお金を元手に為替業務を行っていた。江戸時代の長者番付には、三越を創業した三井家と並び、竹川家が載っている。
13代当主・竹川裕久さんに、自宅を案内してもらった。1階の和室には、勝海舟の書が飾られている。7代当主・竹斎は、勝海舟が若いころから、経済的支援を行っていたという。竹斎は、勝海舟ら幕末の偉人たちを経済的に支援したり、政治的なアドバイスをしたりしていたといい、日本を明治維新へと突き動かした幕末におけるプロデューサー的存在だったという。自宅のピアノの上に置かれていたのは、咸臨丸で渡米した際の出来事を綴った勝海舟の日記。勝海舟が咸臨丸で渡米した際に撮影した写真とともに送られてきた手紙も残されている。写真の勝海舟が持っている刀は、竹斎が勝海舟にプレゼントしたもので、竹斎が自ら受け継いできた名刀だという。咸臨丸は、勝海舟が艦長を務め、幕府海軍として、日本で初めて太平洋横断を成し遂げた軍艦。こうした勝海舟ゆかりの品々は、三重県の文化財に指定されている。次に案内してもらったのは、本蔵という書庫。約200年前、竹斎が私財を投じて建てた日本初の私設図書館「射和文庫」の貴重な文献をここで保管している。膨大な量で、竹川さん自身もすべてを把握しきれていないという。
竹川家の蔵に眠るお宝鑑定。壁には仙台藩の大名家にお金を貸していた時の頂き物の松島の絵が飾られていた。鑑定させて頂く品が赤穂浪士四十七士の方が書かれたという遺書のようなもの。
反古帖という手紙・詩歌・書画などを張り交ぜにした冊子を見せてくれた。表紙には小栗上野介殿と書かれていた。小栗上野介とは幕末の徳川幕府で勘定奉行や外国奉行を歴任。来年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公にも抜擢。
作者不明の銅像を鑑定。作者不明ながら美しい造形で保存状態良好。
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- 松阪市(三重)
百万塔とは奈良時代に称徳天皇の命で作られた木製の三重塔。奈良の法隆寺や東大寺などにそれぞれ10万基ずつ納められた。明治41年、法隆寺が修繕のために寄付を募った際に寄付してくれた方達に返礼品として配布。通常は世に出回らない貴重なモノ。
13代続く竹川家の蔵で見つけたお宝4つを鑑定。1つ目は、小泉が1000万円と予想した作者不明の観音菩薩像。鑑定の結果、日本近代彫刻の父と呼ばれ、日本を代表する彫刻家・高村光雲の作品であることがわかった。鑑定額は、10万円だった。数が残っている作品で、鑑定品はレプリカだという。鑑定結果を受け、竹川さんは、ほっとした、普段から使えるなどと話した。
竹川家のお宝を鑑定。2つ目は、幕末の勘定奉行・小栗上野介の手紙。小栗上野介の書簡のほか、蝦夷地の風俗などを紹介するすごろくや、170~180年前当時の横浜の地図などもまとめられている。鑑定額は、60万円だった。書簡の長さが評価された。後日、改めて翻訳してもらったところ、手紙を書いたのは小栗上野介本人ではなく家臣だったが、小栗上野介の名前が記されているため、当主である小栗上野介の意見が反映されている可能性が高いという。歴史的価値は非常に高く、鑑定額は変わらず60万円が相当だという。
竹川家のお宝を鑑定。3つ目は、赤穂浪士の遺書と大高源吾が使用していた刀のつばのカバー。遺書は、木村岡右衛門のもので、討ち入りの数時間前に書いたとみられる。鑑定額は、2点合わせて80万円だった。遺書のほうが価値が高く、60~70万円だという。吉良邸に討ち入るという歴史的事実が記されていることが評価された。メジャーな人物ではないことから、控えめな鑑定結果となった。
最後に奈良時代の木製の塔を鑑定。1200年以上経過している木のため、欠けるなどするものだが、全体的に状態は良い方だという。百万塔の1番大事な部分は外見ではなく、中に入っているお経だという。世界最古の印刷物とのこと。
保存状態も良い約1300年前の百万塔の鑑定結果は、300万円。塔単体だと20万円ほどで、お経単体でも100万円しないという。両方揃っているから高いのだという。
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続いて向かったのもお宝が眠るプラチナファミリーのところ。山口県防府市である職業で財を成し、数多くのお宝が眠る大邸宅。長い塀をもつ家に住むのが10代目当主の白石民彦さん。江戸時代から続く家業を営んでいるとのこと。敷地の中には五葉松と石灯籠がメインとなっている庭もあった。大正7年に7代当主が建てた屋敷だという。敷地はトータルで3000坪程度とのこと。敷地にはVIP専用玄関もあり、身内の者は勝手口から出入りしているという。主屋や蔵は国の登録有形文化財に指定されているという。部屋は全部で15部屋ほどあり、中には客をもてなすための部屋もあるという。白石家の御子息は奇兵隊に所属していたため、奇兵隊に多額の資金援助をしていたという。隊に所属していた白石家の御子息が亡くなった際、高杉晋作から大いに活躍したと「大石」という名をもらい、それ以降この御子息を神様と祀り、部屋を「大石の間」という名にしたという。貴族院にも所属し、山口県で納税者上位15名に入るほど裕福な家だったという。現在の貨幣価値で考えると7400万円ほどの納税をしていたことになり、 納税額から年商を換算すると数十億だったと考えてもいいと歴史研究家は話す。
南満洲鉄道は日露戦争後、ロシアにあった炭鉱・鉄道を管理するために設立された国策会社。国をあげたプロジェクトの株券が100枚以上白石家には残っていた。現在の貨幣価値で考えると1枚の株券が約2250万円だという。100枚で22億5000万円の価値があるということになるという。白石家の当時の総資産は現在の価値にすると100億円はくだらないなどと歴史研究家は話した。白石家は1765年創業の呉服店だった。メインの商品は着物を中心とした絹織物。現在は草履や小物など和装に必要なものを客に提案するアドバイザーとしての役割も果たしている。白石家は山口県防府で現存する中で最も古く格式のある呉服店で防府天満宮の参拝者からも人気を集めていた。しかし、近年では着物が非日常になり、着用機会が減っているため売上は激減しているという。10年近く売上がほとんどない時期もあったという。白石さんは、18歳の時に家を出て、大学卒業後には会社員として働いていたという。約12年前、定年退職を機に生家へ戻り、家を守ることを決意。精力的にイベントや展示会を開催し、客を増やしているという。また、自宅にある蔵を無料開放し、日本舞踊の教室などを行うなどし、着物に親しむ場を増やしているという。
着物離れした人たちに向けて、「着物リメイク」という新しい試みにも挑戦している。着なくなった着物を引き取り、バッグやコートなどに仕立て直す。白石さんは、文化に対する先行投資と思ってやっている、着物と同時に白石呉服店をずっと続けていきたいなどと話した。
石原と小泉が訪れたのは、上野恩賜公園。まず、西郷隆盛銅像に挨拶。石原は、西郷隆盛の顔はわかっておらず、その肖像は、弟の西郷従道、従兄弟の大山巌の顔を合わせているなどと話した。江戸城無血開城を成し遂げ、江戸を救ったことなどから、維新の英雄として、上野に銅像が建てられたという。石原は、上野の山は徳川の場所であり、歴史が動いてここに来たといえるなどと話した。
上野は、江戸時代、徳川幕府にとって特別な場所だった。江戸城から北東の鬼門にあたり、江戸幕府の天下泰平を築くため、鬼門封じを講じるべく、この場所に開いたのが徳川家の菩提寺・寛永寺だ。寛永寺を中心に、上野は、江戸の文化の中心地として発展・反映した。上野公園は、江戸時代、そのほとんどが寛永寺の境内で、その敷地は上野公園だけではなく、いまの上野駅のあたりまで広がっていたという。巨大な寛永寺について、専門家の大石は、東日本初の首都が江戸、京都に負けない首都を作るべく、こうした大きな事業を始めたなどと話した。
京都に負けないために、新しい首都・江戸の文化の最先端として幕府によるまちづくりが行われたのが上野だった。一行は、上野公園の西郷隆盛銅像から徒歩2分の場所へ。
上野の寛永寺は、「東叡山寛永寺」ともいい、滋賀県の「比叡山延暦寺」と対になっている。
