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長崎・五島市は豊かな自然が魅力の場所で、年間約21万人の観光客が訪れる。また移住者は6年連続で年間200人以上で、”移住の島”としても注目されている。そんな五島市は必要電力の約56%を再生可能エネルギーで発電しているという。中でも「洋上風力発電」が大きな原動力になっているとのこと。この洋上風力発電こそが気候変動への対策として大きく期待されているという。
浮体式洋上風力とは海に風車を浮かべる再生可能エネルギーの最新技術。五島では風車を8基並べたウィンドファームを作ることを目指している。完成すれば五島市の再エネ率は約80%まで引き上がる。この巨大プロジェクトを率いるのが東京に本社を置く大手建設会社・戸田建設の野又政宏さん。浮体式は太いチェーンでしっかり固定されており、地震や台風などの災害にも強く、台風の通り道でありながら一度も倒れたことはないという。水深が深くても設置できるため、遠浅の海が少ない日本に合った技術とのこと。浮体式が生み出すことができるエネルギー量は莫大で、試算では国内の総電力量の2.4倍にも相当する。こうした日本初の浮体式洋上風力のプロジェクトは14年前に五島で始まった。そこには島の人たちが地域の力で繋いだ奇跡のバトンリレーがあった。
五島市福江島の丘の上に立つ一本の風車。浮体式洋上風力で日本の最先端を行く五島市の原点ともいえる。五島生まれ五島育ちの橋本武敏は広島の大学を卒業後、島に戻り小学校の教師をしていたが、父とともに建設業をはじめた。2002年、橋本が暮らす五島の一角に2基の陸上風車が建設された。すると「風車が止まった時に現地に駆けつけ修理する仕事を請けてくれないか」と依頼された。それまでは風車が止まってしまうとメーカーの技術者が島の外からやって来て多額の費用がかかっていた。橋本はメンテナンスの仕事を快諾。「人口が減り続けるこの島で地元の風車さえ維持できなくてどうするんだ」と建設業から風車のメンテナンス事業へ転換する決断を下した。父から継いだ建設会社は「イーウィンド」に社名を変更。五島だけでなく北海道や沖縄などにある約100基の風車を24時間365日監視している。2010年「日本初の海に浮かぶ洋上風車を設置できないか」という話が五島市にもたらされた。この頃、日本では陸上だけでなく洋上の風力発電に大きなポテンシャルがあると浮体式洋上風力が注目され始めていた。環境省が「洋上は陸上よりも風速が強く、その変動が少ないため、安定かつ効率的な発電が見込まれる」と実証事業を行うことに。五島への誘致に動いた一人が橋本だった。五島市が候補地として選ばれたのは、年間を通して風速7メートルの比較的強い風が吹くこと、島の近くでも水深が約100メートルあること。まさに浮体式洋上風力に適した場所だった。そして橋本が立ち上げた風車のメンテナンス会社が五島に存在していたことも大きかった。橋本が五島にぜひとも呼びたかった実証事業。それにシンクロするように敏感に反応した人物がいた。九州で初の女性市長だった当時の中尾郁子五島市長。2004年に初当選しクロマグロの養殖など新しい産業に取り組み2期目に入っていた。当時の市長を知る五島市教育委員会の北川和幸は「五島をよくしようという強い気持ちを持つ市長だった」と評した。ある日、市長に市の職員が浮体式洋上風力発電の実証事業の提案について報告を行うと、市長は「やるわよ!」と即決した。五島市の洋上風力発電の実現には乗り越えるべき高い壁があった。浮体式洋上風力の候補地に挙がったのは五島市で一番大きな島・福江島から船で20分ほどのところにある椛島。70人ほどが暮らす漁業が中心の小さな島。温暖化に伴う海水温の上昇などで起きるとされる磯焼けが深刻化していた。漁師の浦善次は「どんな事業なのか具体性もなんにもわからない。理解してる人っていうのは少なかったと違うのかな」と振り返った。日本初となる実証事業について、当時の戸田建設担当者市の職員らが説明会を開いたが「風車の騒音はどうなんだ。」「低周波の影響で魚がいなくなるんじゃないか」と住民から不安の声が上がり、前例のない実証事業に動揺が広がった。
前例のない風力発電の実証事業。住民たちからは不安の声が上がった。低周波の影響で魚がいなくなるのではないかなど。説明会は2度、3度と開かれた。島は風車を受け入れることになった。潜水士の渋谷さんも一役買った。渋谷さんは磯焼けを目にしていた。洋上風力に魚が集まることをヨーロッパで確認していた。渋谷さんは、椛島の海に潜った。映像を椛島の住民に見せた。洋上風車と漁業は共生できると説明した。いい漁場になるという。2012年、中尾郁子市長が見守るなか、実証事業がスタート。翌年、本格的な浮体式洋上風力が五島へ。戸田建設の野又さんも見守った。「はえんかぜ」という名前とした。南東の風という意味。幸せを運ぶという言い伝えがある。水中には魚が集まってきた。漁師たちの釣り場にもなった。いい漁場になっているという。過疎と高齢化が進む島。戸田建設の野又さんは島の祭りに参加。メンテナンスはイー・ウィンドが担当。元五島ふくえ漁業協同組合の組合長の熊川さんは風車を残したかった。地元の実力者だ。漁師の高齢化、後継者不足。洋上風力の魚が集まる効果に期待していた。水産業をよくしたいと考えた。福江島の沖合で、ふたたび回り始めたはえんかぜ。海中の柱の周りには魚がいる。はえんかぜは約1800世帯分相当の発電量。
日本初の海に浮かぶ「洋上ウインドファーム」の計画が動き出した。完成すれば五島市の再エネ率は80パーセントになる。浮体式洋上風力の量産化について、当初戸田建設は組み立てを九州の他の地域で行うことを考えていた。しかし巨大な風車を組み立て運ぶことは簡単ではない。五島市の中心部福江港のすぐ近くには浮体式洋上風力の組み立て工場があり、今も巨大な浮体部分が横たえられている。五島にこの組み立て工場が設置された背景には地元の人たちの強い思いがあった。誘致の旗振り役となったのが→地元商工会議所の清瀧誠司会頭。洋上ウィンドファーム計画の話を耳にすると、戸田建設の野又政宏と話し合いの場を設けた。清瀧は五島の商工業者が集まる勉強会に野又を招待した。集まっていたのは生コン業者、建設業、塗装業など地元企業の人たち。清瀧は「組立工場はぜひ五島に作ってほしい」と直接提案した。当初想定していなかったという野又だが、清瀧らの熱意と島への経済効果を考え、五島に工場を作ることを決断した。事業規模は200億円、風車に使うコンクリートの一部は地元の企業から調達。さらに新たな工場が雇用を生み島に活気が戻ってきた。さらに風車の設置予定地と近い場所に作ったことも大きなメリットとなり、島と風車の共存共栄がさらに深まる大きな決断だった。島のために奔走した清瀧は風車などから生み出される電気を島のために役立てようと動きをさらに加速させた。長年ガソリンスタンドを経営してきた彼は「子どもたち孫たちのためにいい島の未来を残してあげたい」と再エネ関連のビジネス創出を目指す研究会を発足させた。そこで生まれたアイデアが「電力会社」の設立だった。その名も「五島市民電力」。五島で生まれた再エネを仕入れて五島の企業や住民に供給し、電気を地産地消することでお金の流れを大きく変えることが狙いだった。電気料金は年間およそ30億から40億円ほどが電気代として九州本土に流れていたが、今では7億円が島内に環流するようになった。
福江島の一角に完成した風車の製造工場で順調に進み始めた量産化。五島の海に新たな風車を立ち上げる瞬間に立ち会うことになった。陸上で造った巨大なパーツを船で運搬して海の上で完成させるという。船自体が浮体式洋上風力を量産するため特別に建造されたものだ。巨大な支柱は立ち上がるのか。
風車の支柱の立ち上げ作業では重さ2600トンの支柱が浮力によって浮かび上がった。支柱の底の部分にポンプで海水を注入して重心を下げると→起き上がりこぼしのように自然と立ち上がるという。工事に関わる多くの人たちが見守る中、風車の支柱の立て起こしは無事成功した。プロジェクトの陣頭指揮を執ってきた野又は「やっとここまで来た」と感慨を語った。こうしてに立ち上がった風車は今「はえんかぜ」の隣にもその隣にも浮かんでいる。ここまで来られたのは住民の支えが不可欠だった。例えば一部の部品に不具合が見つかり工事が止まった時も住民から「頑張ってやってくれ」と激励されたという。その後不具合は解消し、工事は再開された。五島市の洋上ウィンドファームは2026年1月に完成予定だ。
福岡県北九州市では洋上風力で世界進出を狙っている。取材班はその地域にある→最も重要なエリアの一つに入ることを許された。洋上風車を支える基礎の部分をこの場所で25基造っている。ジャケット基礎という構造物。土台の部分だ。また、カメラが捉えたのは→海の風車ならではの特殊な訓練。そして風車建設の要となるキリンのような形の巨大な船。風力発電を一基造るのに必要な部品の数はなんと2万点。自動車産業に匹敵するほど裾野が広い洋上風力産業の全てを担おうとする自治体の挑戦に密着した。
日本初の洋上風力の「総合拠点」にになろうと名乗りを上げた北九州市。1960年代は乱立した工場から排出される煙で国内でも最悪レベルの大気汚染となっていた。さらに工場排水で海水も汚染され「死の海」とまでいわれた。しかし地元の市民運動をきっかけに環境は奇跡的に改善、10年連続で「環境モデル都市」No.1として国から選定されるまでになった。そんな北九州市が今力を入れているのが洋上風力発電事業。関門海峡の北西に広がる響灘に「ジャケット基礎」と呼ばれる黄色い構造物が続々と設置されている。北九州市は浮体式ではなく海底に土台を設置する着床式。来年度中にこの海域で25基もの風車の設置運転開始を目指している。しかし市が本当に目指しているのは風車の設置だけではなかった。北九州市港湾空港局の光武裕次さんは北九州市を洋上風力産業の一大拠点として、風車の部品などを造り国内外に出荷しようという計画を推し進めてきた。光武さんは忙しい中を縫って東京に何度も足を運び、風車の基礎を造ってくれる会社を口説き落とした。こうして誘致したのはかつて羽田空港の滑走路の基礎部分なども手掛けた大手企業・日鉄エンジニアリング。現在北九州市若松区にある工場は洋上風力発電用のジャケット基礎製造拠点となっている。技術のある企業を集めて北九州市を風車造りの拠点にしたい。
ジャケット基礎製造のめどが立った光武さんはさらに風車の心臓部ともいわれる部分を造ってくれる企業にも声をかけた。この日訪ねたのは北九州市の隣直方市にある「石橋製作所」で風車の心臓部である歯車の製造を手掛けている。光武さんがこの会社を訪れたのは今から13年前のこと。石橋和彦社長は最初に光武さんが会社を訪れた時のことについて「話の内容がすごく我々に刺さる内容だった」など振り返った。
風車の土台となるジャケット基礎、そして風車の心臓部の歯車と北九州市で作れるものを着実に増やしていった光武さん。しかし海の風車を取り扱う上で絶対に欠かせないものがまだ手に入っていなかった。それが「SEP船」と呼ばれる特殊な船。10年前、クレーン付きで船体を持ち上げられるSEP船は日本になかった。日本有数の海洋土木会社・五洋建設の島谷学営業部長は「当時は船とプロジェクトの関係は鶏と卵のようなものだった。そこに一石を投じた」と語っていた。現在北九州市の響灘で活躍しているSEP船を所有しているこの会社には、かつて所有する上で生まれる悩み事を抱えていたが、北九州市が見事に解消してくれたという。風車の基礎そして心臓部、さらには風車を設置する際に欠かせないSEP船の手配。各地へ風車を出荷するための拠点づくりを着々と進める光武さん。そして風車を設置したあとに一番大事な部分「メンテナンス」を行う会社ではこの日、ある訓練が行われていた。風車を守る仕事人の現場にカメラが入った。
作業員が乗っているのは、並みの揺れを再現する訓練用の装置。この会社がオーダーメイドで作った日本唯一のものとなっている。光武さんがメンテナンス全般を頼んだ会社は、風力発電の保守・運用会社としては日本最大手。風車の部品が大量に保管されていて、そのほとんどが修理用となっている。風車のパーツの多くが海外製だからだという。長さ39mのブレードやナセルもストックしてあった。洋上風力発電事業において大切なのは、風車を作ることだけではなくなによりメンテナンスだと光武さんは考えている。
北九州市の人口は、91万人にまで減ってしまった。そこで光武さんはモノづくりと港の街としての復活をめざし、洋上風力に突破口を求めた。北拓前副社長の吉田悟さんとの出会いは2011年で、2人は意気投合し北九州市で洋上風力を一緒にやることを誓った。北拓は北海道拠点としていて、吉田さんは北九州支店開設を決断した。2016年に支店を開設し、洋上風力メンテナンスを担う重要な存在として風車を見守り続けている。
「日本で一緒に風車を造ろう」と光武裕次は海外メーカーの誘致に乗り出した。現在、北九州市の洋上風力の総合拠点化に参加している会社は、ヨーロッパの風車メーカーを含め国内外で30社以上になる。
地域の人々が主体となって取り組むことで、洋上風力は地域と共生し地域を発展させる。さらに、部品製造やメンテナンスなどの関連産業により雇用を生み、地域を豊かにする。いま、洋上風力への期待が高まっている。
エンディング映像が流れた。
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