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オープニング映像。
盛岡東警察署の菜園交番に勤務する海藤さん。東日本大震災の時は小学5年生だった。海藤さんの故郷は岩手・釜石市で津波にのまれて日常は一変した。震災から約1か月後の4月、6年生に進級して海藤さんは児童会長になった。それから13年、海藤さんは24歳になった。現在両親は市の山側に再建された家に住んでいる。祖母のミネ子さんは津波で今も行方不明のまま。
宮城・石巻市の楓音さんは小学2年生だった東日本大震災で妹を亡くした。笑顔が減っていった楓音さん。中学生の時に画家がプレゼントしてくれた妹が真ん中に描かれた家族の似顔絵をまっすぐ見られなかった。高校1年生の夏、震災を体験した子どもたちとアメリカに行き地域貢献を学ぶプログラムに参加し、それをきっかけに震災のことを人と話すことができるようになったという。震災から10年が経った頃、楓音さんは壮絶な記憶を震災の語り部として初めて口にした。
福島・大熊町出身の良空さんは福島県で震災を語り継いでいる。大熊町は13年前に原発事故が起きた町。いまも町面積の半分が帰還困難区域とされ、9割以上の住人が戻れていない。家族が避難を続ける中、良空さんは1人大熊町のアパートに引っ越した。隣の双葉町で復興に携わる仕事をしている。戻ってきたきっかけは出身地の話になったときに「大熊町はもうないんじゃないの」と言われたこと。原子力災害から立ち直ろうとする地域に目を向けてほしいというのが良空さんの願い。
盛岡市の交番で勤務する海藤さん。祖母のミネ子さんは津波で今も行方不明のまま。海藤さんが通っていた鵜住居小学校と隣に建っていた釜石東中学校の跡地にはラグビーのスタジアムが作られた。当時、小学校にいた海藤さんたちは中学生たちと一緒に避難したという。祖母のミネ子さんは踊りの会を率いて多くの弟子を抱えていて、祖母を訪ねて自宅は来客が絶えなかったという。祖母は津波の時は1人で自宅にいたとみられている。海藤さんは岩手県警察に武道の枠で採用され、訓練員として鍛錬を積んでいる。ずっと剣道を続けていた海藤さんは「同じような災害が起きたときに同じようなことをしてあげたい」と警察官を目指したという。
震災当時中学2年生だった良空さん。実家は福島第一原発から7キロほど離れた場所。実家は原発事故で10年間立ち入れず、おととしやっと避難指示が解除されたが5年前に母屋は解体され、敷地には倉庫にしていた離れだけが残っている。良空さんの祖母は地元に帰ることがかなわないまま避難先で亡くなった。隣の双葉町では12年ぶりに伝統のダルマ市が戻ってきた。良空さんが伝統の太鼓を叩くと、祖母の友人が気づいて話しかけてくれた。
妹のことを語り継ぐと決めた楓音さん。成人式の振り袖を着て妹の遺影の前で手を合わせた。去年の3月11日、生きていれば高校を卒業したはずの妹へ楓音さんは手紙を読んだ。母・江津子さんは画家に依頼し18歳になった妹・春音さんと一緒の絵を描いてもらった。
警察官になった海藤さんは祖母のことを思い出すことがあるという。そんな海藤さんを理解してくれるのが中学時代の同級生である麗那さん。ことし1月に2人は婚姻届を出した。海藤さんはこれから同じような境遇の人がいたら寄り添う存在になりたいと話した。
町を壊し暮らしを奪う大地震は東日本大震災意向も全国で発生している。震災当時中学2年生だった良空さん。実家跡地に残る離れの建物で13年ぶりに明かりがともった。再びここで思い出を作るのが良空さんの生きる支えだという。
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- 令和6年能登半島地震東日本大震災石川県
震災当時小学5年生だった海藤さんの生きる支えは家族の存在。「祖母の分まで楽しく生きてやろうという意地がある」と海藤さんは話した。
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- 岩手県警察
楓音は語り部としてあの日のできごとを伝えている。つらい記憶を語ろうと思えたのは家族が寄り添ってくれたからだという。
「NNNドキュメント」の次回予告。