上皇さまはきょう、戦時中に疎開生活を送った栃木・日光市を、上皇后さまと共に訪ねられた。日光を訪ね、戦争の記憶をたどられる旅は、戦後70年を迎えた平成27年から3年連続で計画されましたが、いずれも大地震などのため取りやめとなっていて、ようやく実現した。正午ごろ、東武日光駅に到着された上皇ご夫妻が車で向かわれたのは、上皇さまが終戦の3週間余前までの約1年間、疎開生活をされていた建物。今は公園となっている旧日光田母沢御用邸。上皇さまは、疎開当時使っていた部屋を指さして上皇后さまに「あそこで勉強した」と話されていた。昭和19年、当時学習院初等科の5年生だった上皇さまは、同級生と共に御用邸がある静岡県の沼津に続いて7月に日光に疎開された。翌月には、戦局が悪化する中で、学童疎開が本格化。当時の貴重な映像が残されている。食糧難の中、子どもたちはキノコや野草を取って食べたこともあったという。学習院時代の同級生で、ともに疎開生活を送った男性。戦局がさらに悪化した昭和20年7月に上皇さまたちは奥日光へ移られた。男性は「われわれと一緒に食事する時は、(上皇さまも)白いごはんは食べられない。1回だけ戦闘機、小さな飛行機が襲ってきて“すぐ防空ごう入れ”と言って飛び込んだ。命がけで過ごした」と語った。8月15日。当時11歳だった上皇さまは、奥日光で終戦を告げる父、昭和天皇の玉音放送を聞かれた。疎開先から戻られたのは終戦の約3か月後。「天皇運命の物語第1話敗戦国の皇太子」よりの映像。かつての御用邸の庭には、思い出の木がある。日光田母沢御用邸記念公園専門職・木内信久さんは「樹木名はイチイ」と述べた。疎開していた当時、庭に大きなイチイの木があったことを覚えていた上皇さまは、平成8年に訪問した際、その場所を確認されたが、すでに木はなくなっていた。今ある木は、平成13年に再び訪問した際、上皇ご夫妻が植えられたもの。木内さんは「美智子さまの提案で“同じ場所に同じ木をうえられたらいかがでくか”。ずっと見守ってもらいたい」と語った。23年ぶりにイチイの木をご覧になった上皇さま。上皇ご夫妻は今月31日まで日光に滞在し、上皇さまが終戦を迎えた奥日光も訪ねられる予定。