龍平のHIV感染判明から1年半。龍平の体調は悪化していった。検査の結果、免疫力が落ちているのがわかりインターフェロンという治療を始めた。インターフェロン治療はウイルスの増殖を抑えるタンパク質を補充する治療法。当時、エイズの発症を遅らせる効果があると期待されていた。龍平は中学に入学。このころ非加熱製剤によるHIV感染がニュースで大々的に報じられ社会で大きな問題になりつつあった。国や製薬会社が危険性を早い段階で認知していたのにも関わらず回収しなかったことがわかってきた。12歳でエイズに感染した岩崎孝祥さんは生きてる証として絵を書き続けた。岩崎さんは19歳でなくなった。被害者やその家族たちは声を上げ始めた。1989年、厚生省やミドリ十字など5社を被告として損害賠償請求の裁判が始まった。この頃、差別や偏見を恐れ原告団で名前や顔を出す人は少なかった。龍平は実名公表と顔出しを決意した。公表までの半年間に密着して撮影された写真集「竜平の未来 エイズと闘う19歳」を発売。この写真集はエイズの偏見が残る世間に対して衝撃を与えた。こうして世間の空気が一気に変わっていった。