兵庫県の公民館に勤める谷垣さんに案内され、険しい山道を進んで行った先に住んでいたのが飯野義行さん。この日(6月26日)が誕生日で73歳になるという。35歳の時に糖尿病を患い、眼底出血で両目が不自由になった。見えていた頃の記憶・色・輪郭を頼りに20年以上も住民4世帯の集落でたった1人で生活している。庭には崖下への転落防止用の柵があった。番組から手ぬぐいをプレゼントすると、薪で焚いたお風呂に入って使ってくれた。生活に欠かせないのが視覚障害者用の読み上げ装置。血圧計や腕時計も音声で伝えてくれるものだった。
別の日に飯野さんを訪ねると、近くの畑へ向かった。慣れている道は感覚で歩けるという。色と輪郭を頼りにじゃがいもと大根を収穫。目が見えず車が運転できないので、推定20kgの野菜を手押し車にのせ歩いて家まで運んだ。食事は全て自炊。収穫したじゃがいもで肉じゃがと味噌汁を作った。砂糖の代わりに使ったのはラカンカ。糖分が吸収されにくく血糖値が上がりづらいという。食卓にはご飯ときゅうりの酢の物も並び、ビールを飲みながら夕食。
昭和28年に生まれた飯野さんは16歳で神戸の建築塗装会社に就職。1970年の大阪万博の会場建設に従事し、太陽の塔の壁面を塗ったという。仕事で汗を流しては飲み歩く毎日だった。酒の飲み過ぎ、不規則な生活で糖尿病を発症。合併症の眼底出血を起こして視力のほとんどを失った。仕事を失い、生活できなくなり、49歳で実家がある山奥の集落に戻ったという。
別の日に飯野さんを訪ねると、近くの畑へ向かった。慣れている道は感覚で歩けるという。色と輪郭を頼りにじゃがいもと大根を収穫。目が見えず車が運転できないので、推定20kgの野菜を手押し車にのせ歩いて家まで運んだ。食事は全て自炊。収穫したじゃがいもで肉じゃがと味噌汁を作った。砂糖の代わりに使ったのはラカンカ。糖分が吸収されにくく血糖値が上がりづらいという。食卓にはご飯ときゅうりの酢の物も並び、ビールを飲みながら夕食。
昭和28年に生まれた飯野さんは16歳で神戸の建築塗装会社に就職。1970年の大阪万博の会場建設に従事し、太陽の塔の壁面を塗ったという。仕事で汗を流しては飲み歩く毎日だった。酒の飲み過ぎ、不規則な生活で糖尿病を発症。合併症の眼底出血を起こして視力のほとんどを失った。仕事を失い、生活できなくなり、49歳で実家がある山奥の集落に戻ったという。