news23 戦後80年プロジェクト つなぐ、つながる
東京墨田区の病院、去年始めて撮影された部屋はススで覆われた壁や天井、80年前の東京大空襲で焼かれ、黒焦げのままで残されていた。1945年3月10日の東京大空襲、1600トン超の焼夷弾で街は炎に包まれた。一晩で約10万人が死亡した。豊田照夫さんは、当時の様子を絵に描いた。ビルから吹き出す炎、豊田さんはまだ9歳だったが1人で地下室に避難した。その後駆けつけた母親と一緒に逃げるも、火に囲まれてしまった。当初母親が家に残った理由とは。”火を消さなければならない”と法律で決まっていた時代、当時は防空法を広めるためのポスターがあったという。逃げることを禁じ、消火活動は義務づけられていて罰則まであった。専門家は、防空法は「市民を戦争に参加させる目的」で作られたという。”焼夷弾は簡単に消せる”と盛んに伝えられた。
投下される焼夷弾、米軍の実験映像には焼夷弾の中にゼリー状のガソリンが入っていて、火が付くと消えづらい様子が映っていた。ガソリンが飛び散り、再現された日本家屋にへばり付き燃え続けた。当時中学生だった小林暢夫さんは、焼夷弾の火を必死に消そうとしたが防空演習とは違い”油の火の玉”だったがゆえに、何をしても消えなかったという。当時の消し方でガソリンの火は消えるのか、専門家監修の元実験を行ったが火を消し切ることはできなかった。”消えない炎”を消そうとした理由は、防空法以外にも「隣組」の意識があったという。「隣組」が生んだ同調圧力により、人々は逃げなかったと専門家は話す。市民同士が監視し合う状況に、逃げられなかったのではなく、逃げなかった。終戦間際にはそこに抗う人も現れたという。約450人が亡くなった、八王子空襲。橋を渡って逃げたという尾股重利さん、火を消せと行く手を阻む人たちに向かって父親が日本刀を振りかざし逃げたという。命を繋いだのは、周りの目を振り切る勇気だった。