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オープニング映像。
横浜市磯子区にある戦後の闇市の面影を残す商店街を通り抜けるとある真照寺の境内には、台湾出身日本兵の慰霊碑があり、戦後80年にあたる去年に建立された。台湾出身と刻まれているのは戦時中、日本人であったという想いが込められているため。日本の植民地であった台湾では軍人・軍属21万人が出征して日本のために戦い、3万人以上が戦没者となった。日本人として認められたいがために志願した若者が多かったという。2012年3月、李登輝元総統とのインタビューが実現していた。李は22歳まで日本の純粋培養であり戦争中は国のために奮闘したなどと明かしていた。当時の李は死を探究するために歩兵を志願したが高雄の高射砲部隊へ配属されていた。当時アメリカは台湾各地を空爆し、台湾総督府も攻撃され、台湾全体で5000人近く亡くなったとされている。日本本土への攻撃が激しくなる中、李は習志野の部隊に配属され、1945年3月に東京大空襲へ向かうB-29のエンジン音を耳にしていた。東京大空襲での経験は半世紀後の1999年9月に発生した台湾大地震で生かされ、李は総統として陣頭指揮を取っていたのだと明かした。
1944年12月に朝日新聞社から出版された「大東亜戦争と台湾青年」は8年前に台湾で復刻された。「大東亜戦争と台湾青年」は戦況が悪化し台湾でも徴兵戦が実施された直後に発売され、当時の司令官の言葉が記されている。台湾・台南で暮らす蘇獻成は元日本兵で激戦地を生き抜いた一人。ニューギニア戦で戦没した日本兵は13万人あまりにのぼり、その殆どは餓死で亡くなっている。王慶祥はバターン半島の部隊に配属された元日本兵で、戦争末期には補給が途絶え、民家から家畜や野菜を盗んでやり過ごしていたという。2019年7月、趙中秋は元日本兵で軍歴所には参加した作戦がいくつも記されている。趙は大戦中最も無謀だとされたインパール作戦にも参加しており、当時兵士たちは疲弊していたが本部からは進軍せよと怒号が飛んできたという。趙は当時殆どが餓死で戦死し、自ら命を立つ兵士もいたなどと明かした。2023年7月、趙は脳梗塞を患い身体の自由が効かない状態にあったが歓迎して取材に応じていた。趙は自分が死ぬまで日本人なのであり、いまでも私の戦争はそのまま残されているなどと告げた。
戦争が既に遠い過去になりつつあった1970年代前半、南方戦線で戦死したと見られていた元日本兵が次々と発見され世間は騒然としていた。最後に発見された中村輝夫は30年間、インドネシアのジャングルに潜伏していた。しかし中村が台湾の先住民出身であったことから当時メディアの扱いは控え目で、日本政府の対応も明らかに異なり、政府からは僅かな見舞金が出されただけで、直接台湾に送り返されていた。台湾に戻った中村は30年の溝を埋めることが難しく暴飲暴食を繰り返すなど荒んだ生活を送り、その4年半後に肺がんのため59歳で亡くなった。台湾・台東には中村の遺族が暮らしており、遺族の家には中村がジャングルで過ごした孤独を象徴する品々が保管されていた。中村の孫である李は、生前の中村が日本に行きたいと話していたなどと明かした。軍人として当然受け取れるはずの恩給も日本国籍がないがために支給されず、中村のような台湾先住民は「高砂族」と呼ばれ、身体能力の高さを買われ、南方のジャングル戦に投入されていた。元将校の井登慧は中野学校二俣分校の卒業生で、学校では生き抜いて戦う術を学んできたという。井登は当時「高砂族」を率いて台湾でゲリラ戦に挑む構えを取っていたが、アメリカは沖縄へ進軍したため井登たちは一度も戦わずに終戦を迎えた。井登は日本のために戦った「高砂族」にはなにかしてあげるべきであったが当時の政府は何もしなかったなどと明かした。
横浜市にある台湾出身日本兵の慰霊碑の完成の法要が真照寺で営まれた。その日を誰よりも待ち望んでいた呉正男は、数少ないソ連に抑留された台湾出身の元日本兵である。呉が求めてきたのは日本人の手で慰霊碑を建立してもらうことであり、その思いを知った真照寺の水谷住職が建立に動いた。呉は16歳で陸軍に志願し、航空部隊に配属され 、終戦間際には特攻作戦への参加を名乗り出ており、日本兵として死ぬ覚悟ができていたなどと明かした。呉は現在の北朝鮮で敗戦を迎え、ソ連軍に取らわれシベリアへ送られた。シベリア抑留では日本人捕虜60万人が連行され6万人が死亡した。カザフスタン・クズオルダは寒暖差の大きい砂漠地帯であり、呉は運河の建設などに従事し、空腹と熱病に苦しめられた。後は2年間の抑留後に日本行きの船に乗せられ、日本に留まることに決めた呉は横濱の華僑系金融機関幹部として中華街の発展に尽力してきた。80年以上日本に暮らしている呉だが、国籍を理由に元日本兵としての保証を受けていない。2020年11月から取材を受けている呉は、抑留中の辛い体験を語るのではなく自分は運が良かったのだと語り続けており、慰霊碑完成後の取材でも2年の抑留は最大なる幸福だったなどと告げている。呉は勾留が長引いたことで台湾に戻らなかったことが幸福だったとしており、一方で当時台湾に戻った日本兵たちを戦争に劣らない苦難の数々が待っていたことが明らかになった。
大戦を生き抜き台湾へ戻った日本兵たちを待ち構えていたのは中国から渡ってきた国民党政権による弾圧であった。台湾・桃園で暮らす元日本兵の簫錦文はインパール作戦に参加し、戦争はやるものではないと感じたのだと明かした。簫は戦後台湾に戻ると日本に替わって台湾を統治していた蒋介石総統率いる国民党政権に監視された。新聞記者となり政治的記事も書いていた簫はある日に突然拘束され、処刑場に向かう途中で当局の方針が変わり九死に一生を得た。簫は多くの日本兵たちが迫害された中でも日本政府は何もしてくれなかったのだなどと明かした。台湾南部にある緑島はリゾート地として内外で観光客から人気を博しているが、かつては政治犯の島と呼ばれ、多いときには2000人以上が政治犯として収容されていた。国民党独裁下における人権弾圧を「白色テロ」と呼び、弾圧は民主化される1990年代まで続いた。50年代の収容所を復元した政治犯収容所跡には植民地時代の文化を国民党が「遺毒」と呼び、その一掃を図り、日本式の教育を受けた知識人である元日本兵が弾圧の対象となった事実が資料として残されている。台湾・基隆で暮らす楊馥成は戦時中にはシンガポールの補給部隊に配属されていた。終戦後に台湾に戻った楊は国民党の腐敗ぶりに絶望し、日本への密航を企てるも失敗して逮捕された。楊は台湾生の日本人だとし、2022年1月に日本政府を相手取って日本国籍の有無確認を求める裁判を起こしたが、翌年に訴えは棄却された。楊はこれを棄民だと考えている。白色テロの時代、1947年2月にその発端となった二二八事件が発生し、高圧的な国民党に対して台湾の人々の怒りが爆発した。台北にある二二八紀念館は二二八事件当時はラジオ局であり、事件の発端は闇タバコ売りの女性に対し政府の取締官が力尽くでタバコを取り上げた些細な出来事であり、当時のタバコ売りには生活に困窮した元日本兵が多かったという。騒動の混乱の中で警察官の発泡した弾丸により死者が出ると、人々はラジオ局を占領して決起を呼びかけ、怒りの声は台湾全土に広がり、国民党軍の介入により短期間で民衆は鎮圧され、二二八事件により死者は1万8000人から2万8000人となった。
台湾中央部の景勝地である阿里山には二二八事件で処刑された元日本兵の息子である湯進賢が暮らしている。湯の父である元日本陸軍少尉・湯守仁は二二八事件などの反乱を企てたとして銃殺され、シベリア抑留者の一人であった。抵抗運動には湯守仁のような戦闘経験者が多くの元日本兵が参加していた。湯守仁は台湾・嘉義にて国民党軍相手にゲリラ戦を仕掛けるも増援部隊を呼ばれたことを知ると仲間を撤収させた。阿里山に戻った湯守仁に国民党は懐柔工作を続け、それを断り続けた湯守仁は4年後に銃殺された。湯は父が日本兵にならなければまだ生きていたいなどと語った。
2025年12月、台湾出身の日本兵慰霊碑を訪れた呉は、呉と同じくシベリア抑留を経験し、台湾に戻った後に銃殺された湯守仁の存在を取材スタッフから知らされた。呉と湯の運命を分けたのはシベリア抑留の長短であり、呉のシベリア抑留が幸福であったという発言の真意はここにある。
エンディング映像。
