- 出演者
- 上田晋也 劇団ひとり 石村智
オープニング映像。
グローバルな視点で世界中を調査しながら歴史に秘められた謎を大追跡する番組。今回、ゲストに劇団ひとりを迎えた。
- キーワード
- アラスカ(アメリカ)ミクロネシア連邦
ミクロネシア連邦のウェノ港を取材していると、日本の歌を歌う人と出会った。さらに、市場では数多くの日本語が使われているのを発見。1914~1945年、日本はミクロネシア(南洋群島)を占領・統治していた。最盛期には1万人以上の日本人移民が暮らし、多くの日本語が広まった。 ミクロネシア連邦では国民の2割が日系人。「シライ」「アイザワ」「ハシグチ」といった日本の名字が今も残っている。特に多かったのが「モリ」。そのルーツを辿ると、130年前にミクロネシア連邦を訪れた最初の日本人・モリコベンに行き着いた。1891年、モリコベンは南洋の王になるという夢を描き、ミクロネシア連邦を訪れた。辿り着いたのはウェノ島。部族の長・マヌッピスの目に止まり、その集落で暮らし始めた。当時、島民たちは部族闘争に明け暮れていた。武士の家系だったコベンは共に暮らす部族のため勇敢に戦った。ところがある時、銃弾に使うため火薬を調合していると突如爆発。右手を失ってしまった。しかし、モリコベンの心は折れなかった。治療のため帰国するも自らを「左拳」と号し、再びミクロネシア連邦へ。マヌッピスはそんなモリコベンを大いに気に入り、自身の娘・ノヌトーの結婚を持ちかけた。そして、孫・ひ孫・玄孫、今では7世代目が生まれ、モリファミリーは3000人を超えるまでに。
上田晋也は「ビッグダディを超えるBiggestダディだね」などとコメントした。
- キーワード
- ナンマトル遺跡
モリコベンはなぜミクロネシア連邦に渡ったのか。その謎を探るため、追跡班はモリコベンが生まれ育った高知市へ向かった。三里史談会の池上修巳さんによると、モリコベン(森小弁)は、1869年、旧土佐藩士・森家の次男として生まれ、若い頃から自由民権運動に熱心に参加。しかし、当時の政治にはお金がつきもの。この時、森小弁は日本の政治に失望したという。自由民権運動で後藤象二郎の家に出入りしていた時、森小弁は日本初の南洋調査から持ち帰られたヤシの実を目にしていた。明治の日本ではまったく未知の世界だったミクロネシア連邦。森小弁は海の向こうで一旗揚げようと大きな冒険心を持って日本を飛び出した。後に、森小弁は日本人と島民たちの橋渡し役として活躍する。
追跡班は、日本統治時代に水曜島と呼ばれていたトール島に向かった。森小弁はこの島で自ら指揮を執りさまざまな事業を手掛けていた。当時、島には小さな水路が点在しているだけだったが、森小弁は日本の技術を持ち込んで長さ100mを超える運河を切り開いた。また、私財を投じて島の子供たちのための学校も造った。森小弁は日本から”ウンドウカイ”のイベントを持ち込んだ。周囲の島々からも人々が集まって、ウンドウカイには1万5000人が参加したという。今でもウンドウカイは同じ呼び名のまま受け継がれているという。
追跡班はミクロネシア連邦の大統領府を訪ねた。歴史上、さまざまな国の支配を受けてきたミクロネシア連邦。初代大統領のトシオ・ナカヤマはミクロネシア連邦を独立へと導いた建国の父。トシオの父は中山正実。1918年、18歳の時、貿易会社の社員としてミクロネシア連邦に渡った。島の女性と結婚し、6人の子どもが生まれる。しかし、太平洋戦争で日本は敗戦。戦後、ミクロネシア連邦を占領したアメリカ軍は日本人の強制送還を始める。正実も妻や子どもたちと引き離され、引揚船に乗せられた。トシオが15歳の時だったという。別れの後、トシオは父を捜しに行こうと日本に行くことを決意。そのために、日夜英語の勉強に励んだ。やがて、トシオは統治政府の職員に抜擢されることに。翌年、父から手紙が届く。「元気でいるが島には帰れない。私のことは忘れて欲しい。今の生活を大事に皆で頑張ってくれ」。日本人の海外渡航が厳しく制限されていた時代。正実が島に帰ることは許されなかった。1961年、トシオが29歳の時、父を捜しに日本へ。父の唯一の手がかりは、父が手紙を投函した「品川」ということだけ。日本人たちの協力もあり、トシオは父と14年ぶりの再会を果たすことができた。しばらくして、正実はミクロネシア連邦へ戻ることが叶った。
ミクロネシア連邦の憲法の前文について劇団ひとりは「美しかったですね、聴いてて泣きそうになっちゃった」などとコメントした。
エンディング映像。
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- ミクロネシア連邦
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