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オープニング映像。
版画家の棟方志功は昭和14年に36歳のときに2体の菩薩と釈迦の10人の弟子たちを描いた二菩薩釈迦十大弟子を完成させた。一年半もの間構想をねって、何千枚とスケッチを重ねエネルギーを全身に溜め込んだし棟方志功は一気呵性に掘り上げ世界のムナカタに。今日の作品は志功の肉筆画。青森の港に隣接する青森駅から志功の愛した温泉を目指す。青い森鉄道で向かったのは浅虫温泉。陸奥湾に湯の島を臨む海沿いの浅虫温泉は800年の歴史ある青森の名湯。創業400年を超える老舗の椿館は棟方志功ゆかりの宿。多くの作品が残されている。
椿館にある棟方志功の作品を紹介。棟方志功が地元の観光協会のために椿館で描いたポスターの原画は湯の島や浅虫温泉の町並みを活気に満ちた色彩で描いている。館内は棟方志功のミニ美術館のように展示される。親子鯉の屏風は恋の親子の様子を描く。落款は道具を一切持ってきていない志功が湯呑の飲んだところを大小違うもので合わせて作ったものだという。椿館の客室をアトリエ代わりにして制作に励む志功のそばには妻が笑顔で見守っている。
棟方志功の大作は萬里水雲長慈航又何處。志功が好んだ仏教の言葉で、その意味はいつどこで人が出会うかわからないので大切にしようという言葉が書かれている。6体の菩薩がいきいきと描かれ奔放なタッチに鮮やかな色彩で志功は自身の肉筆画を倭画と呼んでいる。倭画の意味については心から楽しみながら筆を動かし描くことだという。志功が初めて椿館を訪れたのは昭和13年。椿館の女将は志功は目が悪く、椿館の温泉が目に良いという噂を聞いてやってきた。以来毎年のように家族を連れ湯治に来るように。青森市安方には志功の生家があるが、志功は明治36年生まれで、家は加治屋だった。子どもの頃から父の手伝いをしていて、絵を描くことが好きで加治屋の絵馬鹿と呼ばれていた。17歳で裁判所の給仕になり、師匠もおらず美術教育をうけたことなかったが洋画家を目指した。雑誌の白樺に掲載されたゴッホのひまわりに衝撃を受けた。21歳で上京しコンクールに入選することを夢見ていたが何度も落選。苦悩の中で版画家に転身した。ゴッホが日本の版画に浸水していたためでその版画に自分が取り組もうと考えた。
転機となったのは八甲田山で、神秘の絶景と無限のエネルギーに満ちたその山中に運命を変えた宿が。酸ヶ湯温泉は日本有数の豪雪地で八甲田山中の一軒家度。ヒバ千人風呂があり、その効能により今も湯治の宿として人気の風呂。この宿に今日の一枚が。その絵は八甲田霊山神泉妙瑠璃 舞韻萬千閣大観之図。ダイナミックな墨使いで八甲田の大岳に立ち向かう志功の息遣い。夏の光を浴びた夏の鮮やかな緑。麓には酸ヶ湯温泉や周辺の自然を描く。さらに神舞という文字を残していたが酸ヶ湯温泉を神舞閣としていた。
酸ヶ湯温泉を神舞閣としていた棟方志功。仙人と呼ばれた鹿内辰五郎は青森歩兵連隊の事件を始め多くの遭難者を救出した山のプロ。昭和4年に26歳の志功は青森に帰省し酸ヶ湯温泉を訪れた。まだ無名の新人画家だったが、辰五郎は志功を連れて八甲田山にのぼった。その山中で辰五郎は竹笛を吹いたが多くの鷹が飛来し頭上を悠然と舞い始めたという。棟方志功を激励した鹿内辰五郎。その酸ヶ湯温泉で恩返しのように画家の絵を描いている。御鷹々々は屏風に三羽の鷹を描いた。父の鷹は大空を舞い、子どもの鷹は巣立ちの時を迎えているという。母の鷹はりんとした姿で見守っている。この風景は実際にはないという。その八甲田の絶景は地獄沼。酸ヶ湯温泉の裏にある強酸性の沼で90度にもなる。地面から高温の蒸気が吹き上げるが大好きなこの場所で沢山スケッチをしたという。
酸ヶ湯温泉の宝の酸ヶ湯薬師如来は万病を治す仏様で、柔らかな色合いの薄衣をまとったふくよかな女性の姿で、薬師如来は年に゙一度、土曜の丑湯の日にロビーに展示される。
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