- 出演者
- 恵俊彰 赤木野々花 村井美樹 春風亭昇太 高橋英樹 西川貴教 千田嘉博
熊本城大天守の屋根に乗っているしゃち瓦、高さ約120cm、重さは100キロ。地震で被害を受けたが2021年に復旧したが江戸時代と同じ方法で屋根にしゃち瓦を固定。3択でしゃち瓦の取り付け方を出題。答えは立てた棒に差し込んで固定した。
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- 熊本城
豊臣軍団の城を特集。ゲストはアーティストの西川貴教さん。滋賀県出身なので小さい頃は彦根城、小谷城を見に行っていたという。全国へツアーにも行った先では有酸素運動する為、お城が目安となり走行量がわかるという。今回は豊臣軍団の神シックスが築いたよりすぐりの城を紹介する。
豊臣軍団 神シックスの紹介。猛将の加藤清正、軍師の黒田官兵衛、名参謀の竹中半兵衛、秀長腹心の藤堂高虎、タフネゴシエーターの堀尾吉晴、豊臣兄弟甥の豊臣秀次。
「福岡城」は福岡市の街の中心に位置、秀吉の軍師・黒田官兵衛と息子・長政が江戸時代はじめに築いた城。元福岡親善大使・上田穂乃香さんが案内する。江戸時代の総面積は約110万平方メートル。城趾には球技場や野球場・学校など多くの施設が立ち並ぶスケールの大きな城。2年かけ復元された潮見櫓は昨年完成したばかり、こうした櫓が場内には50近くあった。江戸時代に描かれた福岡城の絵図を紹介。城は四方すべてが水堀で囲まれ、出入り口は3か所だけ。下之橋御門は上に櫓を乗せた格式高い門、この門に向かうためには40メートルある一本道を通るしかないため逃げ場がない。多聞櫓は今もの残る場内最大の建物。長さ約72メートル、建物内は16の部屋に区分けされている。福岡城は経済も視野に入れ古くから栄えた街・博多の近くに造られた。謎に包まれた天守台の大きさは高さ最大13メートル、東西25メートル、南北22メートル。
福岡城について村井美樹は「そこから見る目線の高さにびっくりする。福岡を支配している気持ちになれる」、高橋英樹は「石垣がいい。ほんと広い」、春風亭昇太は「福岡市博物館が好きでよく行く」などとコメントした。
岐阜県垂井町にある「菩提山城」を紹介。戦国時代に竹中半兵衛が拠点とした城。垂井町消防団・岩田一洋が案内する。竹中氏陣屋跡は小学校の校門として使われている。竹中半兵衛は秀吉の参謀として巧な戦術で豊臣軍団を勝利に導いた。城の入口の先には階段状の区画があり兵が待ち受けた。ほかにも敵の進路を限定する溝や尾根を断ち切る人工の谷など様々な仕掛けが施されていた。本丸へ向かう入口には狭い場所に敵を追い込む空堀を配置。本丸からは濃尾平野や岐阜城、名古屋が一望できる。
菩提山城(岐阜県)について、西川貴教は「トレッキングするにはかなり運動量カロリー使いそう」、村井美樹は「普通のスニーカーで行ったら谷で2回転んだ。まんまと半兵衛のワナにはまってしまった。トレッキングシューズ必須」、春風亭昇太は「(土の城は)新しいワナを仕掛けることがたやすくできる」などとコメントした。
大坂城や江戸城など日本を代表する名城の数々。その城作りに中心となって関わったのが藤堂高虎。高虎の城といえば高い石垣と巨大な水堀がトレードマーク。築城名人の第一歩となった城が愛媛・宇和島市にある宇和島城。高虎が築城をはじめたのは豊臣時代。今も高虎の面影が残されている。案内してくれるのは折原健一さん。折原さんと一緒に城のフォトスポットを巡りながら高虎の痕跡を探す。スタートは城の南側上り立ち門。高虎の時代から残ると言われている古い門。今ある石垣の多くは後の時代に改修されたもの。しかし、高虎が築城した時も城は石垣で囲まれていた。かつて城山は海に面していた。海沿いに城を建てるには波による侵食から城を守るため、石垣が必要だった。高虎は城全体を石垣を囲むことで海のそばに城を築き上げた。宇和島城は海を監視するため石垣で波打ち際に築かれた海城だった。高い石垣は高虎の城の一つ。高虎はその後、技術革新を続け高さ30メートルの石垣を作るようになった。宇和島城の約13メートルの石垣はその原点だった。今残る天守は伊達家によって建てられたもの。朝は朝日が差し込んで美しいグラデーションを描き、夕日を浴びるとオレンジ色に輝いて美しいと折原さんは話した。
高橋さんは「大好きな藤堂高虎さん。いろんなお城を作ってますけどどこも素晴らしいです」などと話した。藤堂高虎は秀吉や秀長に支えた武将の中でも加藤清正と並んで築城名人ということでとりわけ石垣の名人だったというふうに伝えられている特別な武将。近江の国にうまれて、秀吉や秀長の築城に鍛えられて、自身のお城・宇和島城で自分で石垣を作り始めたという築城名人・藤堂高虎の初期の作品。築城名人rの第一歩がわかる貴重な石垣だという。
春風亭昇太のお城講座。藤堂高虎は宇和島城より高い、石垣・お城を築いていく。スタジオに用意したのは模型。この模型の斜面に沿って石垣を積んでいく。石一つ一つの形が違うため、最適な石の組み合わせを見つけなければならないため難しいという。。恵さんは加工された石を使って模型に石を積んでいった。藤堂高虎は石の縦・横・奥行きを計算して切り出させたという。大阪城の石垣の映像が流れた。藤堂高虎は秀長の家臣としていろいろなお城の築城に関わったが、自然の石を職人の技術力で積んでいたがいつできるかや、どれほどの石が必要なのかわからないため思いついたのが石垣の石の工業規格化だったという。さらに石切場に石をストックしておき、現場ですぐに使えるようにするなど石垣を効率的に火薬作るという発明をした。また石垣を何箇所も折れ曲がらせることで強い石垣にしたという。
昇太師匠と千田先生が熊本城に訪れた。秀吉の従臣である加藤清正のお城。10年前からの大地震の被害からの復旧が今も進められている。城内の大部分は復旧工事のため立入禁止だが中心部は特別通路から見学できる。天守も被害を受けたが2021年に復旧された。大天守は高さ37m。続いてやってきたのはダイナミックな曲線の石垣が重なって見えるビュースポット。扇の勾配とも呼ばれる美しい曲線は強力な守りの仕掛け。上に行くほど垂直になるため敵が上りにくい。また石垣秘伝之書を見せてもらった。清正のもとで働いた人々が書き残したものと言われている。ここには曲線を描いた石垣の作り方がかかれている。扇の勾配は清正の緻密の計算によって作られていた。
島根県にある松江城。堀尾吉晴が築いた城だ。国宝の美しい風景。水掘巡りは人気の観光コース。出撃する兵を整える場所がある。幅45メートル。敵に反撃を加える仕組みもある。見下ろす壁には穴が開いている。狭間という弓矢や鉄砲で敵を狙う穴。板を渡すと二段になる。天守が見えてきた。築城当時の姿を伝える。堀尾吉晴は秀吉の元で手柄をたて敵との交渉役として活躍。関ヶ原の戦いのあとに築城された。黒い板を壁に貼った。同じ頃、白い壁の城が各地に登場した。息子の忠氏が休止。孫の忠晴が残された。堀尾吉晴は孫に託さなければならない。白い壁には時間がかかる。黒い板ならば短い。完成の半年後に堀尾吉晴は逝去。宍道湖の水を掘りにつなげた。日本海とも結び船が行き来した。この地に繁栄の礎を築いた。
豊臣政権の新拠点は八幡山城だった。滋賀県のほぼ中央の近江八幡市。琵琶湖の東に築かれた。豊臣秀次が居城した。近江八幡観光物産協会の白石さんが案内する。八幡堀の風景も大切だ。観光スポットになっている。大手道には美しい竹林。270m続く。石垣が長く続く。400年を超えるときを刻む。この上に家臣たちの屋敷があった。麓には居住エリア、山頂には防衛拠点があった。ロープウェイの上がるのがいいとのこと。わずか4分。山頂の城は石垣要塞。本丸には瑞龍寺がある。秀次が菩提を弔うために建てた。秀次は秀吉の姉の子。秀吉の甥にあたる。四国攻めのときに手柄をあげ18歳で城主に。秀吉の後継者となった。突き出した区画がある。西の丸は琵琶湖が臨める。北の丸は織田信長の安土城が見えた。安土城より高い場所にある八幡山城。秀次は安土城下をそのまま八幡山城下に持ってきた。経済の振興がはかられた。琵琶湖を通る船は必ず八幡堀を通らなければならない。水運の大動脈となった。
八幡山城(滋賀県)について、村井美樹は「城下町がほんとに風情があって、手漕ぎ船に乗った。時間がゆっくり流れる感じでとても良かった」、高橋英樹は「時代劇の撮影でよく使った」、春風亭昇太は「(秀吉は)武士の考え方よりも庶民感覚がある。その家来たちが造った城」などとコメントした。
エンディングトーク。西川貴教は「藤堂高虎がいかに素晴らしくてイノベーションを起こしている、非常に興味深かった」、村井美樹は「憧れの宇和島城に行けたことがすごく嬉しかった」、(藤堂高虎推しの)高橋英樹は「きょうは嬉しい。超満足」、千田嘉博は「秀吉や神シックスが思い描いた城や町が400年の時を経ても地域の中心になっていた」などとコメントした。
