- 出演者
- 恵俊彰 赤木野々花 深川和征 村井美樹 春風亭昇太 高橋英樹 千田嘉博 赤木野々花 山崎怜奈
オープニング映像。
今回はミステリアスな5つの城を紹介し、ミステリーについて考察も行う。今回の各ミステリーには専門家の間でも明確な答えが出ていないものも多い。春風亭昇太さんは、答えがないなら逆に答えやすいと話した。
鳥取県米子市の米子城の謎は2つの大天守が立ち並んでいた事だ。これらは、吉川広家と中村一忠が気付いた天守だ。建てる為には莫大な費用がかかるので、1つだけ建てるのが一般的だ。米子城武者隊の大原空之介明虎さんが案内してくれる。トレードマークは地毛のちょんまげ。本丸は標高90mの山の上にある。本丸に造られた石垣から2つの天守が見える。ポイントは階段状に連なる石垣だ。これにより強固なものになるのだという。
一報、古い天守の石垣は城内で最も高い石垣だ。石垣が反る事で登る程、登りにくくなる。入口の正面には門があり左右の建物からも攻撃出来る構造になっていた。本丸に登ると絶景を楽しめる。南東には大山がそびえている。ダイヤモンド大山を定期的に見られる。西には中海が広がっている。城下町の繁栄を支えていた。北から東にかけては城下の町。2つの建物は城下を見渡す位置に並んでいた。3層の天守が築かれた後に4層の天守が築かれた。『力の差を誇示する為』等の理由で2つの天守が並んでいたとみられている。
米子城にについて千田嘉博による解説。左側の天守は3層で15メートルの高さがある。右側の天守は4層で20メートルの高さがある。千田嘉博は「2つ天守があるのは珍しい。見栄え重視という事もあった。結果として格好良いお城になった。」等と解説した。
奈良県高取町にある高取城は山の上に築かれている。石垣の城には石像が残っている。高さは約80cm。顔が猿を思わせる事から猿石と呼ばれている。今回案内してくれるのは高取町役場の上田倫嗣さん。城内を探検する事に。山道を登り国見櫓跡に到着した。ここから奈良盆地を一望出来る。今のこる城は、豊臣秀長が家臣に造らせたものがルーツだ。本丸に近付く程、石垣が並んでいる。石垣の高さは12mだ。この上に天守が建っていた。城は石垣で固めて造られた。高取町教育委員会の遠藤さんによると、石垣に謎を解く手がかりがあるという。直方体の石は古墳の石棺を運んだものだという。飛鳥地方には古墳が沢山残っている。それらの多くには巨石が使われている。猿石と関係がありそうなものも。城に猿石が置かれた理由として、魔除けの為に置かれた等の説がある。猿は馬の守り神として信仰されてきた。石像はお腹の大きい人の像とも考えられる。
村井美樹さんは「山頂に上るまで休憩を挟みながら下からだと2時間半ぐらいかかる。トレキングシューズとかしっかりした装備じゃないとしんどい。一升坂は急坂なので米一升あげるからと通らせた道」などと話した。問題:猿石はなぜ置かれた?千田先生はこうした石が入口に置かれているのは珍しい、「日本の城では基本的にこういうことをしませんでしたので誰がなぜ、ここに置いたのかミステリアスなこと」とした。また飛鳥に宮殿があった頃におもてなしをするための庭がありそこに置かれていた石造物の一つではないかと推測、持ってきたが最終的に使われなかったところまでは間違いないと思うなどとした。
大阪のシンボルでど迫力な石垣に豪華絢爛な天守で日本を代表する名城の大阪城。ミステリーとして石垣にあけられた穴を大阪観光ボランティアガイド協会玉置さんを探る。石垣にはめ込まれた畳36枚分の蛸石は瀬戸内海の島から船で運ばれ、今残る大阪城は徳川家が造ったもので巨石は本丸の入口に置き将軍家の財力と権威を見せつけている。蛸石にも穴があった。天守は昭和6年に復興したが天守を支える石垣は江戸時代のもので外からは目立ちにくいが穴が存在している。南外堀の石垣の高さは30m、江戸時代には7つの櫓が立ち並んで監視、この石垣にも穴を発見した。この穴は狭間といい鉄砲で狙い撃ちするための穴だということ。狭間は壁にあるのが一般的だが大阪城のように石垣にあるのは数えるほどでまた極端に多いという。多聞櫓では狭間の位置が低い、広い掘の狭間では75mと遠く見えづらい、本当の狙いは何だったのか。説1身を守りながら反撃するため。説2瀬戸幕府の権威をアピールするため。説3白壁を美しく見せるため。
石垣の隙間の本当の狙いについて身を守りながら反撃、幕府の権威をアピール、白壁を美しく見せるという3つの説についてトーク。千田嘉博は、今の大阪城は徳川が作った大阪城で、幕府のお城ですごいお城だとのアピールではと話した。村井美樹は、壁より石の方が丈夫だから頭を隠しながら撃ったのではと話した。春風亭昇太は、石に穴をあけるのが難しいのにわざわざやっていることから、やってみたらダメだったのではと話した。千田嘉博は、3つの説のミックスでは、大変なことをやっているという幕府の権威と実際の戦いで土塀だとやられてしまうので石の中から撃てるようにと話した。もう1つ大阪城にまつわる話では、幕末に怪物が現れたという。当時大阪城のお掘に怪物が出現したと大騒ぎになった。昭和12年の新聞には大阪城のお掘で1mを超えるオオサンショウウオが発見されたと伝えている。学芸員の跡部信さんは、真相は謎、オオサンショウウオだとすると堀に生息していることはありえないので、当時お城のすぐそばを流れていた淀川から誰かが捕まえて堀に投げ込んだことも考えられなくないと語った。
多くの古代遺跡が残る宮城県多賀城市。1300年前の奈良時代に作られたのが多賀城。白のすぐそばに平安時代からあったとされる陸奥総社宮の市川篤さんは、1300年の歴史がありながらも知名度が低いと話した。今年復元された高さ15mの南門の美しさを演出するのが大きな屋根を支える組物。複数の木材を組み合わせ釘を使わずに作られた古代建築。門の横は敵の侵入を防ぐ高さ5mの築地塀となっており、1層1層土を突き固めて作ったもので強度はコンクリート級。復元工事では1層積み上げるのに3時間、50回近く繰り返し1枚の壁が出来たという。その塀は900m四方を囲んでいた。一際高い場所にあった広大な区画には重要な政務や儀式が行われた政庁があった。多賀城は東北地方を支配するための拠点として作られ、城内には工房や倉庫も置かれて1200人もの人が働いていた。国宝の多賀城碑は高さ2mの石材に141文字が刻まれており、多賀城から都や各地までの距離が記されている。また後半には多賀城創建の年と修理された年が刻まれ、最後に石碑が建てられた日付が記述されている。多賀城碑には一番目立つように「西」という文字が刻まれている。都のある西へ多賀城の功績をアピールする、全方位の文字を刻んだ石碑を建てようとした、西日に当てるための3つの説がある。
山崎怜奈は、多賀城を創建1300年のタイミングで訪れ門から政庁があった場所まで歩いたがすごく遠かったと話した。多賀城碑は奈良時代に建てられたが江戸時代になって発見された。高橋英樹は、都から赴任してきた人が作ったとしたら西に対する憧れや西は極楽浄土の方角なので都の先にある極楽浄土に対する憧れから作られたのではと話した。千田嘉博は、西の方には平城京があり、都や各地からの距離も書いているので、我々はこれほど遠くにやってきて多賀城を築いたんだということ、南側にあるのは多賀城の正門なので来た人に示したかったのではと話した。
春風亭昇太のお城講座。お城の塀について。塀の種類と防御効果を解説。柵、板塀、土塀と変化していった。武器が変わるごとにお城も変化していって塀もどんどん強くなっていった。火縄銃は雨が弱点だったが、塀は屋根のついた長屋のような建物になっていった。
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静岡県藤枝市には武田信玄、徳川家康が激戦を繰り広げた田中城があった場所。街に眠る痕跡を探す。道路がカーブしていて上から見ると道がぐるりと円を描いているのがわかる。田中城はまん丸なお城だった。直径600m、4つの区画と4つの堀がほぼ同心円状に配置された城。堀があった場所には高さ5mもの土塁があった。田中城は堀と土塁守りをかためた城だった。武田信玄にゆかりのある馬出しがあった場所。馬出しのために三日月型の堀が作られた。馬出しとは堀を設け、城の出入り口を守る区画のこと。馬出しがあると敵の戦力は二分され、容易に城へは入れない。反撃に出るときは相手を挟み打ちにすることができる。この馬出しが田中城には6つもある。本丸には今は小学校が建っていて敷地内に田中城のジオラマがある。本丸は徳川家康とのゆかりの深い場所で、御殿で鯛の揚げ物を食べた家康は腹痛を起こしその後亡くなったとされている。現在はかつて本丸にあった建物が城の近くに移築されている。田中城は北の東海道、南の六間川に挟まれた平地に築かれた。徐々に丸い形になっていった。田中城はなぜ丸くなったのか?少ない人数で守る、死角をなくす、洪水対策という説がある。
エンディングの挨拶をした。
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