- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 佐野真由子
今回、万博と日本の知られざる歴史を徹底調査する。1970年の大阪万博に世界から6400万を超える人々がやってきた秘密とは?
オープニング映像。
1900年のパリ万博では来場者が電飾、電気で動く歩道に感嘆したという。日本のパビリオンは法隆寺の金堂を模し、古美術品を展示した。その中には「宝相華迦陵頻伽蒔絵塞冊子箱」という国宝、正倉院の宝物などが含まれていた。今回の万博にあわせ、特別展「日本、美のるつぼ」が行われる京都国立博物館にはパリ万博でどんな品々を展示したかを記録した書籍が所蔵されている。埴輪は日本における彫刻の元祖として紹介されたという。万博で古美術展示の指揮を任されたのが林忠正で、欧米列強から一等国として認められるために由緒正しい歴史、素晴らしい芸術を示したかったという。
明治天皇はパリ万博に展示する至高の品々が紛失する可能性に言及すると、林忠正は「命を懸けて運びます」と返答。万博で来場者たちを感心させ、フランス政府は林にレジオン・ドヌール勲章を贈った。
佐野真由子教授によると、日本は欧米列強からどう扱われるか深謀遠慮を重ね、万博に参加していったといい、古美術品を展示した1900年のパリ万博はひとつの到達点だったという。
1940年、東京で万博が開かれる予定で、前売り入場券もあった。100万冊が発行され、銀行や郵便局で販売されたという。また、1940年に竣工した勝鬨橋は元々、万博のメインゲートとして造られていた。大阪・関西万博では約2800万人の来場者を見込んでいるが、幻に終わった東京万博は約4500万人を想定していたという。1938年、日本は世界58か国に招致活動を行うなか、日中戦争が激化。イギリス、フランスなどは不参加を表明していった。38年7月、東京万博の無期延期が決定された。
佐野氏によると、1940年の万博は東京で開かれることはなかったが、勝鬨橋がつくったり、ポスターをデザインするなど人材も育っていったと感じるという。そんな同氏は東京万博の開催に向けて作られた前売り入場券を手に取り、「写真でしか見たことがなかったのですごく嬉しい」と吐露した。上述した入場券は70年の大阪万博、愛知万博でも使えるよう取り計らわれ、70年には3077件、05年には96件使われたという。
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大阪万博が開催された当時、内風呂の普及率は約7割だったなか、人間洗濯機が展示された。会場内を行き来するタクシーは電気自動車で、リニアモーターカーなども紹介された。太陽の塔の裏側にお祭り広場が設けられ、 世界各国の人々が音楽、踊りなどの伝統文化を披露した。国際情勢に目を向けるとベトナム戦争は泥沼化し、ヨーロッパでは東西冷戦が続いた。万博のテーマとして「人類の進歩と調和」が掲げられ、建築学者の上田篤氏は「先進国でなくとも各国の文化の特色がある」と話す。開催期間中、広場には約27万人が出演していた。広場でスタッフとして働いていた中川さんは閉幕後、日本と経済交流の架け橋になろうとインドネシアで熱帯雨林の木材の輸出に携わった。
60年代、アフリカでは欧米列強から独立する国々が相次いだ。70年の大阪万博では元植民地だった国も認め、交流を図った。佐藤二朗は今回の大阪・関西万博について、「後世に素敵な影響を与える万博になれば」などと期待を寄せた。
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「歴史探偵」の次回予告。