- 出演者
- 福澤朗 今田耕司 片渕茜 菅井友香
千葉・佐倉市役所職員として佐倉ハーモニーホールの運営に携わる小澤拓実さんの依頼は市が所有するお宝だといい、知名度は高くないが新たな名物となることが期待されると話していた。
佐倉市・西田三十五市長も応援に駆けつける中紹介された市のお宝は超巨大なストリートオルガンだ。パイプオルガンの一種であるストリートオルガンだが、こちらはオランダ製で1898年頃に作られたとみられ、日蘭修好380年を受けて買い受けることが出来たが友情価格として600万円ほどという値段だったという。打楽器も演奏可能となっている。元々は手回しだったが現在は電動に改修されたといい、吹子から空気を流してブックという楽譜から曲を読み取って演奏を行っている。
ストリートオルガンは、モーターや手回しの動力によって音を奏でる自動演奏楽器。自動演奏楽器は、14世紀頃、教会の鐘を遠隔操作で鳴らしたカリヨンが起源とされる。カリヨンの仕組みを応用して作られたのが音楽時計。機械式時計に組み込み、時を知らせる音楽を奏でた。18世紀末、スイスの時計職人がこの演奏部分だけを独立させ発明したのがオルゴール。19世紀になると、バレルオルガンが登場。2分ほどしか演奏できないことが欠点だった。ジャカード織機は、紙に穴を開けたパンチカードで経糸と横糸の組み合わせを制御する。これを楽譜に応用した。経本のように蛇腹式の楽譜を「ブック」と言う。振り子から送られた空気がブックの穴を通り、パイプを鳴らす。従来よりコストもかからず、楽譜も簡単に作ることができた。ブック式オルガンは瞬く間に普及した。音に合わせて人形が動いたり、打楽器を組み合わせたりしたものも登場した。大型のストリートオルガンは、1880年頃から半世紀ほど活況を呈した。特にオランダで愛された。蓄音機が普及すると、ストリートオルガンは次第に姿を消した。依頼品は、1898年製のストリートオルガン。幅6m、高さ2m80cm、重さ約780kg。294本のパイプから8種の音色を奏でる。打楽器は4種。状態は極めて良い。
千葉県佐倉市のお宝「ストリートオルガン」の鑑定。本人評価額は、600万円。市長は1000万円と予想。鑑定結果は、1500万円だった。ストリートオルガンで最も大きなサイズで、状態も素晴らしいという。ベルギーのオルガン製作者であるヨセフ・ブルセンスにより作られたもの。最初はベルギーのダンスホールで使われていて、その後は修復を繰り返しながらストリートオルガンとして使われた。中のパイプは製作当時のまま。
アスリートたちが大切にしているものとは?レジェンドアスリートのお宝鑑定大会スタート。スタジオにやってきたアスリートたちはこういう大会を望んでいたと話していた。
日本女子陸上初オリンピック金メダリスト高橋さんから。陸上を始めたのは中学時代で、スターターピストルを鳴らしてみたいと思ったことがきっかけだそう。高校時代は中距離ランナーとして挑んだものの、インターハイ予選落ちなど成績はいまひとつ。しかし「人の倍やって人並み、人の3倍やって人以上」という恩師の言葉を胸に努力を重ねた。大学時代には日本インカレで表彰台にあがった。卒業後は小出義雄監督のもとへ。監督のすすめでマラソンに転向すると、2度目の大会で日本最高記録で初優勝。その後もアジア最高記録で優勝するなど、快勝。オリンピックを目指し、世界一の努力をした人が世界一になれると信じ、毎日2000回の腹筋や高地トレーニングを行った。そして迎えたシドニーオリンピックでは、日本女子陸上初のオリンピック金メダルを獲得。翌年のベルリンマラソンでは世界最高記録を樹立し優勝。女子スポーツ界初国民栄誉賞も受賞した。スタジオで高橋さんは「朝食前に55キロ走っていた」「きょう1日をどう生きるかだった」と過酷な練習について語った。そんな高橋さんはワインが好きで、自宅にはワインコレクションもあるそう。
高橋さんのお宝は2000年にもらったという長嶋監督のサイン入りグランドコート。2000年は長嶋監督のジャイアンツ対王監督のダイエーホークスが叶ったON対決の年。日本シリーズの始球式を任された際にもらったものだそう。高橋さんがシドニーオリンピックで優勝した日付と長嶋監督がリーグ優勝した日付が同じだそうで、その記念の日付を記載してくれたそう。宛名が入っていることで本人評価額は低めの3万円。
高橋さんのお宝、長嶋監督のサイン入りグランドコート。鑑定結果は30万円。最初で最後のON対決の年の貴重な物であること、グランドコートがプロコレクションであったこと、記念すべき日付の心配りなど、2000年のスポーツ界を象徴する記念品だと評価された。
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続いては、野球界のレジェンド糸井さん。小学生から野球をはじめ、2003年北海道日本ハムファイターズ入団。当時は投手だったが、3年目に外野手に転向すると超人が目覚めた。プロ野球史上初となる6年連続3割・20盗塁・ゴールデングラブ賞達成。2022年に引退。外国人選手とテレパシーで話せるなどの天然な一面も。引退会見で今後やりたいことを聞かれた際は筋肥大と答えたそう。また、野手転向のアドバイスをはじめてしてくれたのは新庄剛志さんだったという。
糸井さんのお宝は岸駒と岸岱の龍虎図。親子2人で描いたもの。骨董好きな祖父が遺したものだそうだが、「家にある掛け軸は大概ニセモノだ」と祖父が話していたことが気がかりだそう。本人評価額は77万円。しかし鑑定結果は2万円。全体的な構図がなってないニセモノだという評価だった。
今回は、福島県石川町から。依頼人の鈴木さんは、黒毛和牛の肥育農家。牛舎は標高550メートルの山の中にあり、気温が低く、夏でも快適。飼料は、厳選素材を配合し、水は、阿武隈川水系の天然水を使用している。2010年には400頭を数えるまでになったが、東日本大震災で被災。当時は、佐賀県から稲わらを運んでもらうなど全国から支援を受けたという。鈴木さんが売りたいお宝は、三十数年前からこつこつ集めてきたもの。去年の能登半島地震のニュースを見て、お宝を売り、そのお金を能登半島に寄付したいという。
鈴木さんのお宝は、斎藤清の版画5点。鈴木さんは、三十数年前に福島県柳津町で、斎藤清と会い、話をしてから好きになり、1枚30~35万円ほどで購入したという。北海道の牛がいる景色を描いたものや、会津の冬の景色を描いたものなどがある。
戦後最も愛された版画家との異名を持つ斎藤清。1907年に会津坂下町で生まれるが父の事業が失敗し北海道にわたり、母・ルイも亡くなってしまう。唯一の慰めが絵を描く事となった24歳の時に上京し、独学で油彩画を描き続けた。転機となったのは29歳のときで、安井曾太郎の版画を目にすると衝撃を受けて自らも版画の道を志す。初歩的な技法も知らない中で描かれた「少女」は純真な姿を描いた作品となっている。1937年に26年ぶりに会津を訪れると、厳しい自然の科目な美しさに惹かれこの風景を版画で表現することを志した。あらゆる技法に挑みエッチング技法を取り入れた「瞳(白椿)」や、油絵のような質感の「ミルク」、新印象派の点描を彷彿とさせる「港、小樽」などを生み出した。サンパウロ・ビエンナーレ展に出品した「凝視(花)」は少女の顔を花と合わせるという大胆な作品で、あえて顔に木目を出した斬新な作品で日本人賞を獲得。かつては1枚16ドル程という評価額はマンハッタンのギャラリーで1500ドルもの評価額に変わっていった。「画は構図との戦いダベ」と口にしてきた斎藤は余計なものを一切描かず色彩を最小限に抑ながらも新たな技法を探し求めてきた。その一方で素朴さのあるハニワや土器など日本古来の文化に魅了され、全国を旅して作品を作ってきた。1970年に鎌倉に居を移すと「春の鎌倉 門 円覚寺」など古刹を題材としていった。そして、最後に手掛けたのは故郷・会津であり、雪が降り積もり静寂に包まれながらも懐かしくほっとさせる佇まいを描いた「白い雪が要らないところを消して 描きたいものだけを残してくれる」と雪の美しさについて斎藤は話し、90歳で他界するまでに「会津の冬」を題材とする作品は115点生み出されている。そして、今回の依頼品は北海道大学で着想を得ユーモラスでほのぼのとした「HOKKAIDO(C)」、物憂げな女の横顔と塔のシルエットに板の木目を活かした「TOWER(B)」、鎌倉での作であり手前に木を後に古刹の重厚な門を配し静かな空気感が引き立たされている「GATE KAMAKURA (F)」、赤・紺・黄のコントラストが凛とした美を引き出している「威厳」、代表作として名高く寂寥の中に暮らしの息吹を感じることのできる「会津の冬(89)大野」の5点。
能登半島の復興のために売りたいという斎藤清の版画5点の評価額は230万円。山村浩一氏は海外で評価され逆輸入の形で評価が高まったと紹介。「HOKKAIDO(C)」は45万円で農耕器具を手前に置くことで視線を主役である牛に向けたものだと紹介。「TOWER(B)」は35万円で不思議な取り合わせが特徴と紹介。「GATE KAMAKURA (F)」は50万円で雲母と呼ばれる輝きのある素材を使いシャープさを引き出している。「威厳」は30万円であやめと焼杉の夏季という組み合わせで堂々たる様を引き出している。「会津の冬(89)大野」は70万円で厚みのある雪と洗濯物の色、人物の存在が暮らしのぬくもりを引き出しているが、画廊で販売されれば100万円以上の値段も付く逸品という。購入は番組ホームページから。
今回は番組に出演する鑑定士の経歴や普段の仕事などを紹介していく。
中島誠之助氏は1938年に東京・青山で生まれ、1歳の時に両親が肺炎に罹り死別する。その後は横浜の芸妓が育ての親となったが戦後の混乱で離別し、10歳の時に茶道具商をしていた伯父の養子になった。ここで後継ぎのために骨董について勉強し、その一方で赤坂の寺に通って禅の精神を教わっていた。通っていた芝学園では生物部部長を務め、青年時代には世界一周を夢見て遠洋マグロ漁船に乗り込んだこともあった。この時寄港したシンガポールで華僑の土産物店を覗いた所「商戦」と書かれた掛け軸を見て神の啓示だと思い、商人の道を決意した。22歳で陶磁器の世界に入り、30歳で独立。1976年に南青山で古伊万里染付専門店「からくさ」を開き、世に古伊万里ブームを巻き起こした。また店の前の通りに骨董通りと命名したのも中島氏。1994年の番組放送開始当時からレギュラー出演し、ゆうもあ大賞も受賞するなど活躍し続けている。
骨董通りを命名したのも中島誠之助氏で、中島氏は「名前をつけるまでタクシーの運転手に説明しにくかったので名前を付けた」など話した。また元気の秘訣については「スクワットを毎日60回」など話した。
中島誠之助氏が肌見離さず持っているお宝は「小学校1年生の時の遠足で拾った石」で、81年間いつも持ち歩いているという。中島氏は「幼くして両親を亡くしたので心の拠り所になっている」など話した。
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去年の放送に登場した渡邉知昭さんは当時高級クラブの女性に恋をしていた依頼人で、織田信長らの書4本の掛け軸を鑑定するも贋作ということで8千円だった。現在も女性に恋をしているといい、新たなお宝でリベンジをしたいという。贋作だった掛け軸は祖父が購入したもので、実は5本購入していたが1本が行方不明になっていた。今回はその行方不明になっていた1本が見つかったためこれを鑑定したいという。