- 出演者
- 宮根誠司 藤本万梨乃 金子恵美 石戸諭
鎌倉にあるスターバックスの一角に、ある漫画のキャラクターがひっそりと飾られている。永遠の5歳児「フクちゃん」は国民的4コマ漫画の主人公で、このカフェは作者の横山隆一宅跡にあった。戦前戦後を通じて多くの日本人を楽しませた横山のペン先にも、戦争の影が忍び寄っていた。日常を描いた4コマ漫画に戦時下という異質な日常を滑り込ませ、やがて軍のプロパガンダにも筆を染めていった。20歳で徴兵された砂本三郎は、スケッチブックに理不尽な戦地の様子や戦友たちの記憶を描いていた。
1980年代に放送されたテレビアニメ「フクちゃん」の原作者は、昭和の新聞で35年にわたり4コマ漫画を描き続けた横山隆一。楽しくてイタズラ好きなフクちゃんは、横山そのものだったという。横山が26歳の時に、東京朝日新聞で初連載のチャンスが舞い込んだ。開始当初は「江戸ッ子 健ちゃん」という4コマ漫画で、主人公は気の弱い男の子だった。しかし翌年に日中戦争が開戦し、国全体が「戦うことが正義」だと信じる時代になっていった。次第に気の弱い主人公は嫌われ、代わりに自由奔放な脇役として登場していたフクちゃんの人気が出始めたという。
その頃21歳となっていた砂本三郎は、一兵卒として日中戦争へ徴兵されていた。砂本のスケッチブックは新兵としての自画像から始まり、厳しい訓練の様子など生々しい130枚が残されていた。
砂本三郎が描いた130枚に及ぶリアルな“戦場スケッチ”は、全て記憶だけで描いたものだという。砂本は戦後28年を経たある日、復員後勤めていた会社の碁会所で突然脳出血で倒れた。一命を取り留めた砂本は、なぜかそこから毎日のように写経や絵を描き始めたという。砂本の息子の弘行さんは、戦争体験をほとんどしゃべらなかった父が膨大なスケッチを残していたことに衝撃を受けたという。そこにはガリガリにやせ細った自画像や、戦地の惨状が描かれていた。中には狂気が横行する戦場で、懸命に正気を保とうとする自身の姿もあった。
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太平洋戦争1カ月前には、人気者だった「フクちゃん」も軍部に目をつけられた。横山隆一は軍から呼び出されてカンヅメとなり、南方作戦用の紙芝居の絵を描かされたという。家へ帰ることを許された次の日、真珠湾攻撃が起こり太平洋戦争が始まった。その日の4コマ漫画「フクちゃん」では、日本中が開戦に熱狂する様を淡々と表現した。横山は戦意高揚を目的としたアニメ映画「フクちゃんの潜水艦」など、3本の映画製作に参加した。軍への協力を拒めなかった背景に、政府による厳しい言論統制があったと専門家は推測する。さらに横山は陸軍報道班員として、ジャワ島に派遣されることになる。
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漫画と戦争の歴史を研究する大東文化大学のR・G・スチュワート教授は、「人気漫画の戦争利用は特別なことではない」と語る。
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大東文化大学のR・G・スチュワート教授は、「戦争の漫画利用は、日本だけではなく他の国もやっている。フクちゃんの場合は内地の人が外地に興味を持たせるような内容になっており、政府にとって大きな宣伝効果があった」などと話した。横山が帰国後、戦争はフクちゃんの世界により深く侵食するようになる。
敗戦の色が濃くなった1944年、砂本三郎は再召集されウェーク島に送られた。ウェーク島は対日本における米軍の拠点で、砂本が着いた頃には既に食料補給も満足になく、草木すら生えていなかった。もはや敵は米軍ではなく、終わりのない飢えだった。ついには人数を減らすため、罪を捏造し部下を処刑する上官まで現れた。
砂本三郎は、戦友の亡骸の絵を囲むように「見よ聞けよ、友の魂の叫び声を。消えぬ軍国主義者よ、再軍備主張者よ、好戦主義者よ、太平洋戦争指導者よ。右の者らには聞こえまい、海外に遺棄されて居る俺らの声」と書き綴った。敗戦後日本は経済発展に奔走し、高度成長を謳歌した。
かつての日常を取り戻した横山隆一は、毎日新聞で「フクちゃん」の連載を再開した。終戦直後の作品を振り返り、横山は「色をぬったわけでもないのに、背景の空がひろくて青く、すきとおってきれいな気がする」などと語っている。
一方で砂本三郎は復員後に三菱重工の社員となり、病に倒れるまで剣道や尺八、俳句などの趣味に没頭した。三郎の息子の弘行は、あるライブハウスで行われたイベントで父のスケッチを紹介した。会場にいた俳優の秋吉久美子は、そのスケッチを見て「鋭利な刃で胸を突き刺されたような衝動で、息がつけないぐらいの思い」だったという。
砂本三郎のスケッチを見て衝撃を受けた、俳優の秋吉久美子。スケッチは出版社へと持ち込まれ、書籍にまとめられた。書籍にまとめた渡辺考氏は「生き残ってしまったがゆえの苦しみが砂本さんの中にあったと思う」などと語った。砂本三郎の息子の弘行さんは、「戦友のことを忘れてはいけないという思いが常にあったと思う」などと語った。一方の横山隆一はペンを置くその日まで庶民の姿を描き続け、最終回を描いたペンを「サザエさん」の作者・長谷川町子に贈っていた。
石戸諭は「なぜ負ける戦争に日本は突っ込んでいったのかを、あらためて問わないといけない。空気に対して有効なのは、事実に基づいて考えること」などと語った。金子恵美は「経験者が語る記憶の生々しさからくる恐ろしさは、記録とは違うものがある」などと語った。
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