日本初の「ミートソーススパゲッティ」誕生物語。そこにはある男の数奇な運命と夢があった。日本初のミートソーススパゲティ爆誕まで2555日。ときは明治時代初期・新潟の港町にも文明開化が訪れた。後に日本の食文化を変えるイタリア人シェフ、ピエトロ・ミオラ。世界中の食材をみてきたミオラでさえ初めて見るものばかり。寿司、砂糖、芸者に力士、侍、商人など開国直後の新潟の街は、時代の変わり目に不安と希望であふれ。異国の地でシェフを夢見たミオラは日本の特別な魅力を感じていた。そんなミオラがシェフとして同行していたのはフランスのサーカスあ団「スリエ曲馬団」。世界中を一緒に回る家族同然の仲間、日本に来れたのも曲馬団のおかげだった。しかし、曲芸馬の暴走で大怪我を負ってしまう。その怪我がきっかけで日本初のミートソーススパゲティ誕生に関わる運命の人達と出会う。西洋医学の先駆者、医師の竹山と曲馬団の公演中に出会った、後に妻となるお千。ミオラはこの2人とミートソース誕生までの苦難の道をともに進むことになる。しかし、それはまだ先の話し。
数日後、ミオラは怪我の影響もあり曲馬団と別れることに。この曲馬団との別れが日本初のミートソーススパゲティ誕生に近づくことになる。無職のミオラが見たのは洋食が普及している様子だった。当時の日本は西洋料理が広まり始めていた。すると、竹山の紹介で旅館のシェフに。そして、ここでの出会いがミオラの運命を大きく動かすことになる。その人物とは県令の楠本正隆。明治政府の意思を新潟で実行する男。ミオラの存在を知り竹山に仲介を依頼。2人の年齢は36歳同い年。世界情勢について語り合い、ともに気になっていたのがこの国の将来。当時日本は富国強兵を掲げ、近代国家への発展を目指していた時代。楠本も新潟で精力的に日々動き回っていた。世界基準の街を作りたい楠本、世界基準の味を広めたいミオラ。2日との夢は通じ合っていた。そしてある日、楠本からの200円の融資をもとにお店を作ることに。こうしてミオラは世界基準の料理店を目指し、まずは牛肉の小売店から始めた。江戸時代まで牛肉を食べる習慣が無かった日本人。販売当初は拒絶反応があったが、県令・楠本も協力。政府も協力しぎゅうにくの販売を促進。さらに医師の竹山は牛肉と一緒に牛乳を販売することを提案。こちらも大好評。1878年、新潟初の西洋料理店がオープン。当時のメニューは記録がなく詳細不明だが、ミオラの作る料理は大人気に、長蛇の列が出来ていたそう。
しかし、翌年日本最大級の感染症のひとつコレラが全国に蔓延。感染者数15万人以上、約10万人が命を落としたという。感染対策のため外出が制限された。しかし、ミオラは政府を説得。外出禁止の市民に弁当を届け続けた。さらに翌年コレラの流行が尾を引く中、新潟大火が発生。約6000戸が消失。支援に名乗りをあげたのは常連客やコレラが蔓延する中ミオラの弁当に救われた市民たち。労働者から経済界の大物、外国人。皆が復興で大変なときにミオラの料理が食べたいと集まってくれていた。こうして、1881年日本初の本格イタリア料理店「イタリア軒」が爆誕。メニューはビーフシチューにワイン、コーヒーや当時爆発的人気を誇った牛鍋。そして、イタリアのボローニャ由来の肉料理「ボロニア風ミートソーススパゲティ」が生まれた。ミートソースはミオラの故郷の味。イタリアの味が日本の食文化に入り込んだ瞬間だった。イタリア軒は最先端を行くレストランとなり大人気の社交場になったという。その後20年以上愛され続けたミオラの料理。そして、1906年、イタリア軒を日本人シェフに継承しイタリアへ帰国。イタリア軒名物ボロニア風ミートソーススパゲッティはその後、じわじわと全国に広がり、日本の食文化に定着していったという。そして、150年以上経った現在もホテル「イタリア軒」として営業しており伝わったボロニア風ミートソーススパゲッティを販売している。日本初のミートソーススパゲッティはイタリアと日本、料理と人が混じり合い文明開化が生んだ一皿。
数日後、ミオラは怪我の影響もあり曲馬団と別れることに。この曲馬団との別れが日本初のミートソーススパゲティ誕生に近づくことになる。無職のミオラが見たのは洋食が普及している様子だった。当時の日本は西洋料理が広まり始めていた。すると、竹山の紹介で旅館のシェフに。そして、ここでの出会いがミオラの運命を大きく動かすことになる。その人物とは県令の楠本正隆。明治政府の意思を新潟で実行する男。ミオラの存在を知り竹山に仲介を依頼。2人の年齢は36歳同い年。世界情勢について語り合い、ともに気になっていたのがこの国の将来。当時日本は富国強兵を掲げ、近代国家への発展を目指していた時代。楠本も新潟で精力的に日々動き回っていた。世界基準の街を作りたい楠本、世界基準の味を広めたいミオラ。2日との夢は通じ合っていた。そしてある日、楠本からの200円の融資をもとにお店を作ることに。こうしてミオラは世界基準の料理店を目指し、まずは牛肉の小売店から始めた。江戸時代まで牛肉を食べる習慣が無かった日本人。販売当初は拒絶反応があったが、県令・楠本も協力。政府も協力しぎゅうにくの販売を促進。さらに医師の竹山は牛肉と一緒に牛乳を販売することを提案。こちらも大好評。1878年、新潟初の西洋料理店がオープン。当時のメニューは記録がなく詳細不明だが、ミオラの作る料理は大人気に、長蛇の列が出来ていたそう。
しかし、翌年日本最大級の感染症のひとつコレラが全国に蔓延。感染者数15万人以上、約10万人が命を落としたという。感染対策のため外出が制限された。しかし、ミオラは政府を説得。外出禁止の市民に弁当を届け続けた。さらに翌年コレラの流行が尾を引く中、新潟大火が発生。約6000戸が消失。支援に名乗りをあげたのは常連客やコレラが蔓延する中ミオラの弁当に救われた市民たち。労働者から経済界の大物、外国人。皆が復興で大変なときにミオラの料理が食べたいと集まってくれていた。こうして、1881年日本初の本格イタリア料理店「イタリア軒」が爆誕。メニューはビーフシチューにワイン、コーヒーや当時爆発的人気を誇った牛鍋。そして、イタリアのボローニャ由来の肉料理「ボロニア風ミートソーススパゲティ」が生まれた。ミートソースはミオラの故郷の味。イタリアの味が日本の食文化に入り込んだ瞬間だった。イタリア軒は最先端を行くレストランとなり大人気の社交場になったという。その後20年以上愛され続けたミオラの料理。そして、1906年、イタリア軒を日本人シェフに継承しイタリアへ帰国。イタリア軒名物ボロニア風ミートソーススパゲッティはその後、じわじわと全国に広がり、日本の食文化に定着していったという。そして、150年以上経った現在もホテル「イタリア軒」として営業しており伝わったボロニア風ミートソーススパゲッティを販売している。日本初のミートソーススパゲッティはイタリアと日本、料理と人が混じり合い文明開化が生んだ一皿。
