今も残る80年前の痕跡。20万人余りが犠牲となった沖縄戦。砲弾の雨から逃れるため、住民や日本兵が身を寄せていたのが自然洞窟である。沖縄の方言で”ガマ”という。20年以上にわたり、独自にガマを調査している男性は戦争の実相とは何か置い続けている。崩落・劣化により80年前の戦争を静かに語るガマが消えようとしていた。外国人観光客で賑わう東京・浅草。そこで今年6月に開かれた戦争展では戦場となった沖縄の写真や戦没者の遺品などが展示されている。火炎放射器で焼かれ炭になったおにぎりやテーブルには「さわってみてください」の文字があった。遺品や遺物に直接触れることで戦争を肌で感じてもらいたいという。遺品や遺物の背景を説明する清水章宏さんは鳥取・鳥取市に住んでいる。公務員として働く傍ら、20年以上に渡り沖縄の戦争遺跡を独自に調査してきた。戦争に関して関心を抱き始めたのは広島市で勤務していた頃で戦跡や証言をたどり、平和ガイドのボランティアも行っていた。さらに親族が沖縄に向かう船で戦死したことを祖母から聞き、実際に沖縄に足を運ぶようになったという。求めているのはそこで何が起きているのかという戦争の実相であった。
今年2月、清水さんは住民が追い詰められた沖縄の糸満市へ。石灰石でできた自然洞窟のガマは沖縄には大小1000以上あるといわれ、そのほとんどは自治体による管理がされていない。行動を共にするのはカメラマンの杉山英一さん。ガマの中には1人では決して入らない。1945年4月、沖縄本島にアメリカ軍が上陸し激しい地上戦の末に首里に司令部を置いていた旧日本軍は沖縄県南部に撤退した。6月23日に組織的な戦闘が終了し、日米あわせて約20万人が犠牲になった。砲弾の雨から逃れるため、身を潜めていたガマ。ここには戦時中、兵士や住民・多くの女学生も避難していた。生き延びた女学生は当時のことを「壕内は蒸し風呂のようだしそれに、上からポタポタしずくが落ちて濡れる」と証言していた。薄暗く泥が堆積した地面は逃げのびた人たちにとって、命を守る最期の砦だった。しかしアメリカ軍に火炎放射器やガソリンで火をつけられた跡が残っていた。清水さんは渡航費など全て自費で訪れ、戦争の実相を伝えようとしている。初めて沖縄のガマを訪れたのは、20代後半の頃であった。何度もガマを訪れるようになり、2007年に見た時の光景が目に焼き付いているという。岩にぶら下がった黒い服は戦後62年が経った当時でも時が止まったようだった。清水さんはその時の様子を綴っていた。これまでに200か所以上のガマを調査し、今戦争を語るガマが埋もれようとしていた。
今年2月、清水さんは住民が追い詰められた沖縄の糸満市へ。石灰石でできた自然洞窟のガマは沖縄には大小1000以上あるといわれ、そのほとんどは自治体による管理がされていない。行動を共にするのはカメラマンの杉山英一さん。ガマの中には1人では決して入らない。1945年4月、沖縄本島にアメリカ軍が上陸し激しい地上戦の末に首里に司令部を置いていた旧日本軍は沖縄県南部に撤退した。6月23日に組織的な戦闘が終了し、日米あわせて約20万人が犠牲になった。砲弾の雨から逃れるため、身を潜めていたガマ。ここには戦時中、兵士や住民・多くの女学生も避難していた。生き延びた女学生は当時のことを「壕内は蒸し風呂のようだしそれに、上からポタポタしずくが落ちて濡れる」と証言していた。薄暗く泥が堆積した地面は逃げのびた人たちにとって、命を守る最期の砦だった。しかしアメリカ軍に火炎放射器やガソリンで火をつけられた跡が残っていた。清水さんは渡航費など全て自費で訪れ、戦争の実相を伝えようとしている。初めて沖縄のガマを訪れたのは、20代後半の頃であった。何度もガマを訪れるようになり、2007年に見た時の光景が目に焼き付いているという。岩にぶら下がった黒い服は戦後62年が経った当時でも時が止まったようだった。清水さんはその時の様子を綴っていた。これまでに200か所以上のガマを調査し、今戦争を語るガマが埋もれようとしていた。
住所: 沖縄県南風原町字新川148-3
URL: http://www.archives.pref.okinawa.jp/
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