テレメンタリー2024 (テレメンタリー2024)
文洋さんは長野県・諏訪市に暮らしている。この日はこれから出版する新たな写真集の編集などに追われていた。自宅にはこれまで撮りためた写真やネガなど10万点以上が保管されている。それらすべてを故郷の沖縄に寄贈したいと考えている。那覇市・首里は1938年に文洋さんの生まれた場所。父は琉球の時代小説や沖縄芝居の脚本を手掛けた作家の石川文一。執筆にのめり込んだ父は文洋さんが4歳の時に仕事の幅を広げようと家族を連れて本土に移住した。石川家の菩提寺である万松院に両親や兄弟が眠っている。物書きだった父の背中を追うように高校を卒業するとジャーナリストの道に足を踏み入れた。初めてベトナムに渡ったのは1964年の8月。アメリカがベトナム戦争に本格的に介入するきっかけとなったトンキン湾事件の直後のことだった。母はアメリカ軍に同行し刻々と戦況が厳しくなる戦場の最前線で命がけで写真を取り続ける息子のことを何も言わずに見守っていたという。そこは地獄のような現場だった。銃撃戦のさなかに身を伏せて撮った写真もある。兵士が手にバラバラになった遺体を持っている写真もある。被害者は人間としての尊厳を奪われ、加害者も人間性を失っていくという。戦争の実相が映し出されている。戦地から帰った文洋さんはベトナムで多くの人の命を奪っている爆撃機が故郷である沖縄からでていくのを目の当たりにした。
この日は当時取材した新垣さんの元を訪れた。ベトナム戦争の頃、沖縄では日本への復帰運動が盛り上がっていた。 1969年本土の仲間たちの支援を求めて上京した沖縄代表団を写した写真。代表団の1人だった新垣さんは沖縄が平和憲法の元に帰り、重い基地負担から解放されることを願っていた。その思いの根底にはかつての沖縄と同じように地上戦に巻き込まれたベトナムの人たちへの思いもあった。文洋さんも同じ気持ちだった。ベトナムの戦場で撮影した人々は沖縄戦を逃げ惑った祖父や故郷の人々と重なっていた。あの頃が忘れ去られようとしている今、沖縄は再び揺さぶられていた。