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オープニング映像。
1960年代国が南北に分かれて対立するなかアメリカとソ連が介入し、泥沼化したベトナム戦争。沖縄戦のあと27年間アメリカの統治下に置かれた沖縄はこの戦争の出撃基地として使われた。沖縄から送り出された兵士と基地から飛び立った爆撃機が無差別の攻撃を繰り返し、民間人を含む300万人以上が犠牲になった。海の向こうの戦争を戦場のベトナムと出撃基地だった沖縄の両方で取材したジャーナリストの当時26歳だった沖縄出身の石川文洋さん。その写真には凄惨な地上戦などが記録されている。ベトナム戦争が終わってからもうすぐ50年。石川さんは人生の最終章と定めるテーマと向き合っていた。
この日は当時取材した新垣さんの元を訪れた。ベトナム戦争の頃、沖縄では日本への復帰運動が盛り上がっていた。 1969年本土の仲間たちの支援を求めて上京した沖縄代表団を写した写真。代表団の1人だった新垣さんは沖縄が平和憲法の元に帰り、重い基地負担から解放されることを願っていた。その思いの根底にはかつての沖縄と同じように地上戦に巻き込まれたベトナムの人たちへの思いもあった。文洋さんも同じ気持ちだった。ベトナムの戦場で撮影した人々は沖縄戦を逃げ惑った祖父や故郷の人々と重なっていた。あの頃が忘れ去られようとしている今、沖縄は再び揺さぶられていた。
那覇市で開かれた県民平和大集会には政府が南西諸島で進める軍事強化に反対して1万人が集まった。政府は九州から与那国島にかけて自衛隊を配備しミサイル基地も建設する。ベトナム戦争から50年になるのを前に沖縄の市民グループは日本とベトナムの若者たちが平和を学ぶツアーを企画した。戦争証跡博物館では元館長のフィン・ゴック・ヴァン氏は戦争で家を焼かれてケガをさせられたり家族が離れ場案れになる等の人々の苦しみに目を向けている等と話す。石川文洋氏はホーチミン市人文社会科学大学で戦争を知らないベトナムの学生たちにベトナムの歴史を伝えた。ツーズー病院平和村ではベトナム戦争でアメリカ軍が撒いた化学兵器の枯葉剤の影響で障害を持って産まれた人達が暮らしている。ツアー参加者は言葉は通じなくてもお互いに感じる部分はあった等と話している。
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エンディング映像。