2024年9月28日放送 3:25 - 4:20 フジテレビ

FNSドキュメンタリー大賞
伝え続ける ー86歳の戦場カメラマンー

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(オープニング)
今回は…

石川文洋さんはアメリカ軍南ベトナム軍に従軍しベトナム戦争を撮影し戦争の凄惨さを伝えてきた。今回は戦争の姿を知るカメラマンを取材した。

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ガザ地区(パレスチナ)ベトナム戦争安曇野市(長野)
オープニング

オープニング映像。

FNSドキュメンタリー大賞
伝え続ける ~86歳の戦場カメラマン~

長野県諏訪市に住む報道写真家の石川文洋さんはカメラマン人生の集大成となる写真集を出すためにベトナム戦争の写真に整理をしていた。ベトナム戦争は1964年頃から南ベトナムと北ベトナムの間でおこなわれた戦争。アメリカが軍事介入し南ベトナムを支援し住民含む300万人以上が犠牲になったとされる。銃弾が飛び交う戦場せアメリカ軍の攻撃や北と南にわかれて戦うベトナム人同士、戦争に巻き込まれ犠牲になる住民の姿を写真に収めてきた。石川さんは今、自分の経験を若い世代に伝えることに力を入れている。この日は安曇野市の堀金中学校で講演会が行われた。まず話したのは命について。沖縄で生まれ、子供の頃に大阪、千葉に移り住んだ。太平洋戦争末期に故郷の沖縄では地上戦の舞台になった。人口の4人に1人が命を落としたこの戦いで祖父や親戚の多くを亡くした。カメラマンとして戦火のベトナムに入ったのは26歳のときで当時世界一周の旅の資金を稼ぐために勤めていた香港の写真スタジオから派遣された。死と隣り合わせの戦争の最前線について中学生たちに語った。戦争で目にする残忍な光景に生徒たちには衝撃的だった。

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ベトナム戦争太平洋戦争安曇野市立堀金中学校諏訪市(長野)

残酷な写真を撮影する理由に石川さんは戦争は笑い事ではないと答え、死体を見て笑っている写真はまだ優しい方だと答え、戦争になればそのような状態になると答えた。戦争報道はベトナム戦争をきっかけに大きく変化したという。 ベトナム戦争でアメリカは民主主義のための戦いを掲げ、最前線での自由な取材を許していた。しかし映像や写真によって戦地の惨状や住民への残虐な行為、アメリカ兵の犠牲の多さが公になると次第にアメリカの世論は反戦へと向かうように。1973年にはアメリカはベトナムから撤退し、北ベトナムとの戦いに敗れた。1991年の湾岸戦争でアメリカはディーバー・システムという攻防体制を導入。メディアの前線取材を制限しピンポイント爆撃などの戦況映像を大量に提供した。そうすることで市民も自国の兵士も犠牲にならない近代的な戦争と印象付けてセンチの具体的な様子を伝わらないようにした。空爆精密誘導兵器は8%。それ以外が無誘導爆弾だった。石川さんは戦争の姿が伝わりにくくなっている今こそ写真がもつ力を信じている。

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石川さんは自宅横の長い階段をのぼり毎日かかさずに上まで歩くが、歩くことは報道写真家としての石川さんの活動を支えている。20年前には歩いて日本を縦断する旅の挑戦し北海道から沖縄まで3000キロを超える道程を歩き、現場を訪れることを第一にしてきた。今年1月に起きた能登半島地震。発生から1ヶ月後に取材に向かった石川さんはその現場を写真で撮影した。これまでも東日本大震災などの災害現場を訪ねてきたが現地では被災した人にできるだけ会いにいき話を聞くことを大切にしている。南谷良枝さんは自宅と実家などが地震の被害にあった。朝市で営業をするとともにインターネットで魚介類の販売をしている。しかし倉庫が傾き中の機械も壊れて加工品はほとんど売りものにならなくなった。また能登半島伝統の魚醤のいしるを作っていた樽も壊れ、無事だったいしるはわずかで商品のほぼすべてを失った。

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令和6年能登半島地震南谷良枝商店南谷良枝商店 ホームページ東日本大震災諏訪市(長野)輪島市(石川)

南谷さんはさらに地震によって海底が隆起し輪島港などでは漁船が出港できなくなったという。また商品をまた販売したいと答えた。50年前激しい戦闘の舞台になったベトナム。今年3月に日本の学生と石川さんがベトナムへ。アレン奨学会沖縄が企画したベトナム平和研修では沖縄県の大学生や高校生など6人が参加した。9ヶ月まえに石川さんは沖縄県で学生に講演を行い、生まれ故郷と太平洋戦争で惨禍に見舞われた沖縄で自分が見てきた戦争を語った。アメリカの統治下にあったころ沖縄はベトナム戦争に深く関わった、がベトナム戦争に向かうアメリカ兵の訓練基地なり兵士や物資を運ぶ拠点となった。沖縄からきた若者にベトナムの過去と今を伝える旅だという。学生たちは石川さんの講演で写真をみたり話を聞いたりしてそれぞれの思いをもって参加した。

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山内さんは教師を目指しているというがこの平和研修会を企画したアレン奨学会沖縄 は毎年ベトナムの小中学生に奨学金を贈る活動を行っている。元アメリカ海兵隊員のアレン ネルソンはベトナム戦争から帰国したあと心的外傷後ストレス障害を発症し障害と戦いながら多くの敵の命を奪った経験を語りベトナムへの謝罪と支援の思いを伝え続けた。枯葉剤の影響で亡くなったとみられるアレンさんの元には多くの寄付が集まった。一人のアメリカ兵の償いが平和研修につながっている。

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ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館はベトナム戦争の歴史を伝えている。一日は地元ベトナムからの大学生と一緒で、ベトナム戦争には世界中からジャーナリズムが集まった。その記録を集めたフロアも。博物館では二人の日本人カメラマンの作品が特別に展示されている。一人が石川さんで、写真120点と写真集、取材に使ったカメラが展示されている。もう一人は中村梧郎さんで戦争で使用された枯葉剤の被害を長く伝えている。石川さんはベトナムと日本の学生に自分が撮影した写真の背景を話す。将来先生となり子どもたちに戦争の怖さを伝えたいという宮城さん。多くの住民が犠牲になった国で戦争の詳しい状況に触れて使われた兵器を初めてみた。

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ベトナムは1986年に打ち出されたドイモイ政策によって発展を遂げた。道路を埋めるバイクの列が経済成長の象徴。時代の変化とともに戦争の記憶が薄れつつある。戦争が遠いものなりつつある中で戦争の爪痕を残す場所が。ツーズー病院平和村はベトナム戦争の枯葉剤の影響とみられる障害を抱える子どもたちが暮らしている。枯葉剤はアメリカ軍がジャングルに潜む敵をあぶり出すために大量にまいた化学兵器。猛毒ダイオキシンを含み人々に深刻な後遺症を与えた。人の生殖機能に影響があるとされ孫やひ孫の代にまで重い障害を抱えて産まれてくる子供たちがいる。平和研修中の学生たちも病院にやってきて子どもたちと交流した。五篠彩姫さんは高校教師を目指している。花城さん怪我をして装具をつけて生活した体験から義足をつくる仕事をしたいと思っている。その枯葉剤の影響を実際にみてみたいと思っていたという。

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中でも花城さんは競泳のベトナム代表選手のグェン・ホン・ロイさんとの話が印象に残ったという。山内さんは身振り手振りでコミュニケーションをとっていたがここでの経験が1番印象に残ったという。滞在期間中は日本語を学ぶ学生と交流した。ベトナム中部のダナンの外国語学校では日本語を学ぶクラスの歓迎をうけた。沖縄の学生は沖縄の伝統芸能の踊りを紹介した。学生たちは楽しく交流した。石川さんは元気なうちは戦争の現状を伝えていきたいと答えた。

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