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オープニング映像。
世界には18種類のペンギンがいる。そのうち日本で飼育されているのは12種類、4500羽以上。日本は世界一のペンギン大国だという。日本がペンギン大国になった理由とは。昭和20年太平洋戦争に負けた日本、戦後深刻な食糧難に陥る。当時人々の命を繋いでいたのが、栄養価の高い鯨の肉だった。日本から多くの捕鯨船が南氷洋に向かった。その乗組員たちが出会ったのがペンギンだった。彼らが日本に連れ帰ったペンギンたちが、全国各地の動物園や水族館に寄贈される。戦争中に動物の多くを死なせてしまった動物園にとって、ペンギンは救世主だった。しかし、育った場所と全く異なる環境の日本、ある時ペンギンが病気にかかってしまう。カビの一種・アスペルギルスが原因の呼吸器感染症で、ペンギンが生息する場所にはほとんどアスペルギルスがいないので感染しやすく、重症化すれば死んでしまうという。なんとか抑えることができないか、獣医たちは悩んだ。そして、当時発売されたばかりの水虫薬が効果があるのではということになり、蒸気にして吸入させたところ見事カビを抑えることに成功した。この治療法は湿度の高い日本だからこそ生まれたものだという。こうしてペンギンたちは北半球の日本でも健康で長生きすることができるようになった。
捕鯨船に乗って日本に来たペンギンの中でも御長寿No.1だったのが、昭和38年にやって来た「ぎん吉」だった。みんなに愛された「ぎん吉」は、世界最長39年9か月15日間という飼育記録を達成した。今、日本ではペンギンに会える場所が100か所以上ある。戦後の復興期から70年あまり、ペンギンは私達と一緒に歩いてきた。
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日本にいれば気軽にペンギンに会えるが、ペンギンがどうやって日本にやって来たかなどは知らなかったとMCの寺田は話した。ここで、18種類のペンギンをほぼ実物大の大きさで並べてみた。コウテイペンギンは最も大きく120cm程度もあるという。全国各地の動物園や水族館でおなじみの、ペンギンのお散歩。実は、日本独自の飼育方法だという。さらにそのアイデアは、当初ペンギンの運動不足解消だった。
昭和47年パンダが初来日、「ランラン」と「カンカン」。2頭はこの年、日中国交正常化を祈念して中国から贈られた。歴史の転換点に現れたスターに、日本中が大フィーバー。一般公開の前には徹夜組もいた。公開当日の行列は1km超え、先頭には徹夜で待機していた男性の姿があった。初日は6万人が動物園に殺到、見ることが出来るのはわずか20秒程。パンダの魅力が、日本と中国との心の距離を近づけてくれた。
昭和59年、また動物園に大行列が出来ていた。その目的はコアラ。オーストラリアだけに生息するコアラは、1日のほとんどを木の上で過ごし食べるのユーカリの葉だけ。野生のコアラは1930年代までの乱獲で生息数が激減、保護のためにオーストラリア政府は輸出を禁止してきた。そんな幻の動物の輸出が半世紀ぶりに解禁された。昭和59年10月25日、待ちに待ったコアラ6頭が来日。東京、名古屋、鹿児島の3つの動物園に引き取られた。この年、日経平均株価が市場初めて1万円台を突破し、景気は拡大傾向。バブルの前夜各地でコアラフィーバーが加速する。デパートではコアラのキグルミがお出迎えし、ユーカリの木に抱きつくコアラの振り付けの「コアラ音頭」が。さらに、コアラをモチーフにしたお菓子が誕生したのもこの年のこと。まさにコアラノミクスと言ったところ。それから40年、6頭から始まった日本のコアラは繁殖の成功などもあり、現在は50頭以上になっている。ブームが去っても変わらずみんなに親しまれている。
当時小学生だった柴田はテレビでそのブームを見ていたという。さらに柴田は、中国のパンダの飼育センターに行ったことがあるとのこと。一つの山を丸々パンダの飼育場にしていたと話した。また、中国では双子のパンダが生まれた場合、母親に1頭しか育てさせないというが、アドベンチャーワールドでは母親が双子の子育てに成功し、世界初の繁殖事例となった。
大人から子どもまでが殺到した人気者と言えば、エリマキトカゲ。CMやテレビ番組に登場するや一世を風靡。あっという間におもちゃ売り場はキャラクター商品でいっぱいになった。子どもたちのお遊戯や、伝統芸能・文楽の舞台にもエリマキトカゲが登場するほど。しかし、当時日本にエリマキトカゲはいなかった。そのため、約60匹が緊急来日したがあまり動かない様子に見に来た子どもたちは不満そうだった。
続いても、CMに登場し一躍人気者になったウーパールーパー。しかし「ウーパールーパー」とは日本人が付けた名前で、本当の名前は「メキシコサラマンダー」というサンショウウオ。そんなウーパールーパーだが、40年経った今でもペットショップで見ることが出来る。
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- ウーパールーパーメキシコサラマンダー
1993年”流氷の天使”のキャッチコピーで有名になったのが「クリオネ」。貝殻を持たない巻き貝の一種。日本では北海道・知床の海に生息していて、クリオネ目的で北海道を訪れる人が急増した。
作り物と間違われるほど、あまり動かないことで有名になった動物「ハシビロコウ」。2021年に投稿されたある動画が話題 になった。それは、クラッタリングという口ばしをたたき合わせて音を出すコミュニケーション方法で爆音を響かせるハシビロコウの姿だった。
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- ハシビロコウ松江フォーゲルパーク
東京の都心から離れた動物園、井の頭自然文化園。ここに今は空っぽのゾウ舎がある。かつての主は”はな子”。戦後70年近く生きてきたゾウ・はな子の波乱の一生の物語。敗戦から4年後の昭和24年、東京・上野動物園に2頭の雌のゾウがやってくる。その1頭がはな子、タイから贈られた2歳半の子どもだった。そしてもう1頭は、インドの首相からの贈り物・インディラ。歓迎式では当時の首相・吉田茂が直々にバナナをあげ歓待した。2頭のゾウに日本中が夢中になったのには理由があった。太平洋戦争の最中、動物園から逃げ出すおそれがあるとして動物たちが殺処分された。上野動物園で花子の愛称で親しまれていたワンリーも、他の2頭と共に犠牲になった。戦後やってきた”はな子”の名前は、戦争の犠牲になったゾウの名前を受け継いだもの。2頭のゾウは日本に平和が訪れたことの象徴でもあった。より多くの子どもたちに元気なゾウを見てもらおうと、はな子は東京の街をめぐった。船に乗って伊豆大島まで遠征したこともあった。インディラはさらに遠く、札幌を含めた日本各地17の都市をめぐった。日本に来てから5年後、はな子に転機が訪れる。この頃、上野動物園のゾウは3頭になっていた。かねてより井の頭自然文化園に来てほしいと熱望する声に答え、はな子は引っ越しすることになった。仲良しのお姉さんゾウ・インディラとはお別れ。雌のゾウは本来群れで生活するため、1頭だけだとストレスになると現在では考えられている。突然始まったひとりぼっちの暮らし、それはその後のはな子に暗い影を落とすことになる。はな子はイライラすることが多くなった、ゾウ舎の壁を蹴飛ばし大きな穴を開けたこともあった。そして事件が起きる、酔っ払った男性が夜ゾウ舎に侵入、はな子がふみ殺してしまった。さらに4年後、はな子は餌やりをしていた飼育係の男性を踏みつけ、またも死亡事故を起こしてしまった。はな子は危険な殺人ゾウだと鎖に繋がれ、閉じ込められることになった。動けるのは1mほどのみ、ストレスからはな子は餌を食べなくなりやせ細ってしまった。そこへ、新たな飼育係が赴任する。上野動物園ではな子を見送った、山川清蔵さんだった。山川さんは鎖を外すことを決断、しかしはな子は人間不信になっていた。はな子は鼻を使って見る人を威嚇するようになっていた。山川さんが来て6年、ようやくはな子はその手を舐めるようになった。しかし、はな子の体は大きなダメージを受けていて、栄養失調の影響か歯が抜け落ちてしまった。歯のないはな子の食事は、毎食20kgの野菜や果物を飼育係が細かく刻んだものにしていた。山川さんは、30年以上はな子に寄り添い続けた。1990年山川さんは引退、新しい飼育係と関係を深めてほしいとその後、はな子に会いに行くことはなかった。
山川清蔵さんの息子・宏治さん。父の後を受け継ぎ、はな子の飼育係となった。宏治さんは、ひとりぼっちのはな子に楽しみを与えようと、おやつをあげるふれあい体験を始めた。この頃、はな子は50歳すぎ。かつて来園者を威嚇していた危険なゾウは、人を近寄せるようになっていた。宏治さんは、人間だけに囲まれて40年以上生きてきたはな子に「自分を人間だと思っている」瞬間を感じることがあると話した。2016年最晩年のはな子の姿、当時国内最高齢の69歳だった。
はな子の物語を見て、日本がまだゾウの習性をわかっていなかったことから起こってしまった悲劇であった部分もあるとの意見があり、実際にゾウの生態をしっかりと調査して色々と分かってきたのは最近のことだったという。また、AIが進化してきている今の時代だが、飼育だけは絶対にできないと思うと小管さんは話す。
ここで、日本に来たばかりの子どもの頃のはな子を実物大で見てみる。さらに大人になると人間の身長を優に超えた様子が伺えた。
昭和34年、キリンの引っ越しの様子。リニューアルされた広い家へ移動するのだが、首が長いので電線に引っかかりそうになり、竹竿で押し上げくぐっていった。キリンの負担にならないよう、約1.5kmの道のりを5時間かけて慎重に運んだ。
続いては、昭和62年愛媛県立道後動物園の引っ越し。この年、周辺の都市化に伴い道後動物園は閉園。新しく作られた「とべ動物園」へ向けて動物たちの引っ越し大作戦が始まる。その数112種520匹、引っ越し期間は3日のみ。事情をわかってくれない動物たちに飼育員は悪戦苦闘。水鳥を追って池に飛び込んだり、サルを目掛けて網を振るったり、動物たちには絶対ケガをさせてはいけないため、細い足や翼が骨折しやすいフラミンゴにはストッキングを使って保護していた。警戒心の強いクマを呼び寄せる秘策は、好物のカステラ。8m以上もジャンプするカンガルーは、4人がかりで抑え込んでようやく確保していた。街の人たちに見送られながら、12km先の新天地へ出発した。引っ越しを終えた動物たちは、新居でのびのび過ごしている。
動物たちの引っ越しの様子を見て、柴田も引っ越しの手伝いをしたことがあると言い。1番怖かったのはサイだと話し、人間の想定よりもはるかに激しく暴れたため、檻を壊してしまったとのこと。サイはとても臆病で目があまりよくないため、怖くて走り出す習性があるとのことだった。また、高橋は円山動物園で飼育員体験をした際に、老カバの保湿を体験しカバが自ら塗られに来てくれたことに愛しさを感じたと話した。
2005年に一大ブームを巻き起こした、レッサーパンダの風太くん。人気の秘密はその立ち姿、一立ちすれば歓声が沸き上がりピーク時には年間80万人が訪れた。レッサーパンダは、高いところにある餌を手繰り寄せたり、天敵を見つけたりするために立つ習性を持っている。好奇心旺盛な風太くんは、自分を見に来る人に興味を示して立ち上がっていたという。風太くんの尻尾は少し短めで、赤ちゃんの頃母親が誤って噛み切ってしまったからだという。尻尾が邪魔にならないため、人間のように背筋の伸びた立ち姿が可能になったのではと言われている。あれから20年、風太くんは22歳になった。人間なら100歳ほど、国内にいるレッサーパンダでは最高齢となる。今は立つことはないが食欲は旺盛で元気に過ごしている。そんな風太くんを長年見守ってきた、中野志保さん。中野さんは、風太くんの日常を追うため年間200日通って撮影を続けてきた。2022年には、それまで見守ってきた日々を描いた漫画を出版。レッサーパンダは、開発による生息地の消失や毛皮を狙った密猟で個体数が減少、絶滅危惧種に指定されている。そんな中、風太くんは繁殖の面で大活躍。中野さんは繁殖の時期にはいつもと違う姿が見られたという、それがオスがメスに求愛する時の恋鳴き。2006年チィチィとの間に双子の赤ちゃんが生まれる。その後も毎年のように子どもが生まれ、4年間で8頭が元気に成長した。現在では風太くんの血を引くレッサーパンダは、6世代81頭にのぼる。子や孫たちは繁殖のために全国の動物園へ。中には、地球の裏側チリへと旅立ち南米初のレッサーパンダとなった子どももいる。風太一族は世界を股にかけて活躍している。今や日本はレッサーパンダ大国と言われるほど、その数を増やしている。
7月5日22歳の誕生日を迎えた風太くん。多くのファンが会いに来ていた。しかし、展示場には風太くんの姿はない。レッサーパンダは元々暑さに弱く、風太くんはさらに高齢のため屋外には出さないとのこと。暑い夏を少しでも快適に過ごせるようにと設置されたミストや冷風機は、クラウドファンディングで約2400万円が集まり設置された。誕生日のイベントは涼しい部屋の中からリモートで行われ、多くのファンが集まった。