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1973年から約30年間ボストン交響楽団の音楽監督を務めた小澤征爾は、ボストンを拠点として世界各地でタクトを振った。夏の時期はボストン近郊で開催されるタングルウッド音楽祭で多くの人と音楽を楽しんだ。
オープニング映像。
「TBSドキュメンタリー映画祭2025」の告知。
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「カラフルダイヤモンド〜君と僕のドリーム2〜」の告知。
小澤征爾は満州・奉天で四人兄弟の三男として生まれ、1歳のときに北京に移り住んだ。歯科医だった父は政治活動を熱心に行い、民衆組織のリーダー的存在だった。父の社交性を受け継いだことがオーケストラを一つのまとめる力になった。クリスチャンの母の影響で音楽に触れた。昭和16年に日本に帰国し、一家は立川で暮らした。終戦後、征爾は父が買ってくれたピアノを練習した。中学は成城学園に進学。学級委員や全校委員を務めてリーダーシップを発揮。仲間たちと合唱団を作り、生まれて初めて指揮をした。父のつてで豊増昇のレッスンを受けていた。
「巨大蛇行剣と謎の4世紀」の告知。
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「TBSドキュメンタリー映画祭2025」の告知。
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ピアノを断念した征爾は指揮を学ぶため桐朋学園へ進学し、齋藤秀雄に師事した。齋藤は独自の指揮法を創り出し情熱的に生徒に伝えた。卒業後は齋藤の手伝いをしていた。群馬交響楽団へ行きプロのオーケストラを指揮していたが、裕福な友人たちがヨーロッパに留学する中焦りを感じていた。
「渡邊雄太 傷だらけの挑戦者」の告知。
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1959年にフランスへ渡った征爾は、ブザンソンで指揮者のコンクールに出場し一等になった。1960年にバークシャーセンター音楽祭のオーディションに合格し、さらにカラヤンの弟子となるオーディションにも合格した。バーンスタインに師事し、1961年にはニューヨーク・フィルの副指揮者になった。1962年にはNHK交響楽団の指揮をすることになったが、楽団員とのコミュニケーションがうまくいかず定期公演と第九の演奏会は中止となった。征爾は海外に拠点を求めていった。
「REASON ~あの日、HIPHOPに憧れた少年たち~」の告知。
「TBSドキュメンタリー映画祭2025」の告知。
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海外で音楽監督となり実績を重ねた征爾は、1965年のクリスマスに日本武道館で指揮をすることになった。演奏したのはベートーヴェンの第九だった。その時の映像を伝えた。
「彼女が選んだ安楽死~たった独りで生き抜いた誇りとともに~」の告知。
征爾は1970年にサンフランシスコ交響楽団、1973年にボストン交響楽団の音楽監督に就任した。ボストン交響楽団のオーボエ奏者・若尾圭介氏は自分の思ってる音楽をメンバーに示せる世界最高の指揮者と話した。その後ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任した。2002年「ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート」のCDが100万枚以上を売り上げ、レコード大賞特別賞を受賞した。ヴァイオリニストの豊嶋泰嗣氏は小澤さんより勉強している演奏家はいないと話した。ハープ奏者の吉野直子氏は小澤さんの目のエネルギーにいかに自分が応えられるか、それをオーケストラで1つのものを作っていくプロセスが楽しかったと話した。。音楽評論家の東条碩夫氏は100人の集団を1つにまとめてコンスタントに半世紀以上続けたのは小澤さんが最初の日本人と話した。
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「あの日、群馬の森で -追悼碑はなぜ取り壊されたのか-」の告知。
1984年、征爾はサイトウ・キネン・オーケストラを結成。1992年には長野・松本市でサイトウ・キネン・フェスティバル松本がスタートした。子どもに教えることにも熱中した。若い才能を育てたいという思いは現在も続いている。征爾は自分にしかできないことを教えたい、いい生徒に会うと本当に嬉しいと話した。
「埋もれる叫び~南米アマゾンで広がる子ども達の異変~」の告知。
エンディング映像。