2025年6月15日放送 16:00 - 17:15 テレビ東京

プレイングマネジャーの勇断〜トップへの岐路〜

出演者
田中瞳 
(オープニング)
オープニング

ビジネスシーン最前線で部下をマネジメントしながら自らもプレーヤーとして現場に立つプレイング・マネージャー。今回紹介する2社のトップはどんな新人時代をおくりプレイングマネージャーとしてどう壁を乗り越えてきたのか?企業のトップにたつ2人の社長のヒストリー。

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コクヨ文明堂東京
創業家SP
第3弾 創業家スペシャル

日本の上場企業の中でファミリー企業は49.3%だという。プレイングマネージャーの勇断第3弾は創業家スペシャル。創業家企業の特徴の一つでもある長期経営。中でも100年超えの老舗でトップを引き継いだ社長を特集。

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ファミリービジネス白書【2022年版】後藤俊夫
コクヨ 黒田英邦 トップへの岐路

東京の空の玄関口「羽田空港」。国際ターミナルに併設された商業施設「羽田エアポートガーデン」に、コクヨが2年前にオープンさせた話題の直営店「KOKUYO DOORS」がある。店内にはコクヨの定番文具以外にも土産物にぴったりの詰め合わせや和テイストの限定品などもある。さらに店内では外国人客にもわかりやすいように文具の使い方を動画で説明するなどしている。そんなコクヨでまず思い浮かべるのがキャンパスノート。コクヨは他にお定番商品をつくる文具メーカーというイメージだったが、底に吸盤がついていてテープが楽に取れる「グルー テープカッター」2255円や角がいっぱいの消しゴム「カドケシ」220円など、アイデア文具を次々売り出している。さらに、東京ビッグサイトで開かれたアジア最大級のオフィス家具の見本市「東京オルガテック2025」にも展示コーナーがありオフィス家具も手掛けている。展示されたのは「イングクラウド」28万3800円のみだがコクヨの特許技術が詰まった自信作で、座面が前後左右360度どの方向にも動き、ゆったり作業できるものとなっている。コクヨ全体の売上の半分近くを稼ぎ出しているのがオフィス家具事業。取材の日にコクヨ品川オフィスで行われていたのは文具部門のワークショップで、周囲から「英邦さん」と呼ばれていたのがコクヨ社長・黒田英邦(49)。黒田社長は文具部門の本部長も兼任する現役のプレイングマネージャーで社員と同じ目線で意見がかわされている。コクヨは1905年創業、以降120年もの間黒田家が経営を担ってきた日本を代表するファミリー企業。黒田家の5代目社長・英邦社長のプレイングマネージャーの勇断に迫る。

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創業100年を超える老舗企業は国内に4万社以上あるがうち8割近くが親族に事業を引き継がせる同族承継であることがわかっている。ファミリー企業は意思決定が迅速で後継者を育てやすいというメリットがあると言われているが創業家の御曹司としてコクヨに入社した英邦さんはどんな岐路に直面しどんな勇断をくだしたのか?コクヨの初代社長は富山県出身の黒田善太郎で大阪で紙製品のお店を開いた。そんなコクヨを大企業に育てたのが黒田善太郎の息子で2代目社長の黒田しょう之助。しょう之助は、1960年にスチール製のファイリングキャビネットを発売するなど紙製品だけでなくオフィス家具に本格参入するなど迅速な意思決定で事業を拡大。文具の分野でも1975年にキャンパスノートを発売。これもしょう之助が牽引したものでそれまで糸とじだったノートを糸をつかわずノリでとめる無線とじという技術を開発した。さらにしょう之助は工場の機械化にも着手するなど迅速な意思決定で急成長させた。コクヨのカリスマ的経営者・しょう之助をよく知るのが息子で4代目社長(現・会長)の黒田章裕で、しょう之助は怖い人だったという。英邦は1976年兵庫県尼崎市生まれで経営者の子どもが多いことで知られる甲南幼稚園から甲南大学までエスカレーター式で進学。幼少期から帝王学を受け付けられたのかと思いきや、コクヨについて文房具以外は知らず、教えてもらえなかったという。将来コクヨを継ぐことを特に意識することなく大学卒業後に2年間アメリカに留学。そんなときネットの掲示板にコクヨの社員が不満をかきこみ大炎上した事実を知り、初めて家業に入ることを意識し始めた。英邦は周囲に相談すると、大半が新卒でコクヨに入ることに反対し別の会社に一度入ってはどうか?という声が多かった。ここで英邦は大きな岐路に直面。コクヨへ入社するのか別の会社で修業をつむのか。御曹司・英邦に決断は?

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コクヨの創業家出身、5代目社長の黒田英邦。留学後コクヨに入社するか、別の会社で修業を積むかの岐路に立たされる。悩んだ末、コクヨへ入社することを決めた英邦だが入社するには当時会長を務めていた祖父・しょう之助に許しを請わなければならなかった。英邦が「入社したい」と伝えるとしょう之助は「黒田家の人間は人の3倍働きなさい」と言ったという。人の3倍働かなければ周りから認められない。創業家の人間はそれくらいの覚悟を持てと諭された。2001年、晴れてコクヨへ入社した英邦はまず大阪の本社で研修にはげんだ。その研修で同じ班だったのが同期入社の谷治。当時英邦の実家へ遊びに行った時の貴重なエピソードを教えてくれた。初給料の明細が実家の冷蔵庫に貼ってあったそうで黒田家の中ではすごく重みのある初給料の明細なんだろうと感じたという。研修を終えた英邦はオフィス家具部門に配属され企業相手の営業担当になった。様々な企業と渡りあう花形部署の営業マン。それは御曹司として恰好の船出だった。そこで英邦の上司になったのが井田。鼻息の荒かった英邦に「営業マンの経験を摘みに来たのか?一流の営業マンになろうと思っているのかどっち?」といじわるな質問をしたそう。すると英邦は半怒りになり「営業マンになりにきたんです。何を聞いているんですか」と怒ったという。一方英邦も創業家として特別扱いされたくないと人一倍プレッシャーを抱えていたという。結果が求められる厳しい現場で学んだことで英邦は社内で大きな成果を上げていく。

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入社4年目の2004年、英邦はオフィス家具部門の経営企画部に移動。肩書は係長や課長をすっ飛ばし「部長」。30人以上いた同期のなかで異例中の異例とも言えるスピード昇進だった。英邦は部下6人を率いる「プレイングマネージャー」としてチームで結果を残そうと新しい試みに挑む。それはオフィスのレイアウト。当時はオフィス家具を購入してくれたときの無料サービスだった。決まった形でしかなかったレイアウトを顧客目線に立ってデザインし、お金をもらうビジネスにしようとしたのだ。結果は上々。顧客目線の新たな試みが上手く行ったことを社員たちに伝えると一気に設計部門が提供するサービスのレベルがどんどん上がり、結果的にやりがいを持ち楽しそうに仕事をするように変わっていったという。英邦は社員のやる気に火を付けられたら商品やサービスの質が上がり会社も変わると感じた。コクヨが手掛けるオフィスのレイアウトは今ではそれぞれの企業の働き方や企業風土に合わせて他社オフィスの空間設計を行っている。例えば「カップヌードル」でおなじみの「日清食品」の東京本社。こちらのオフィス全体の空間設計はコクヨが担当した。ガレージをイメージした組み換え可能な鉄製のパイプを使い自由にレイアウトできるようになっている。コクヨのオフィスの空間設計は評判となり大きな収益を上げている。トップへの階段を着実に歩んでいくように見える英邦だったが…。

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カップヌードルコクヨ新宿区(東京)日清食品ホールディングス

当時のオフィス家具事業はある問題を抱えていた。それは製造と販売が分社化されていたことで連携がなくなり対立構造が生まれていた。入社以来オフィス家具の販売会社にいた英邦は入社7年目には販売側の取締役に就任していた。一方、販売側と対立する製造会社の内藤は「販売側はお客からの要望という理由で製造側に様々な要望を言ってくるので仲が良いというわけではなかった。」と話す。対立からの転機は「リーマンショック」。オフィス部門全体で36億円の赤字を計上したことだった。英邦は社長を務めていた父・章裕との食事の際、オフィス家具の現状を変えたいと訴えた。何度も訴えかける息子に章裕は「分かった。だったらお前が立て直してみろ。」と答えた。父から事業の立て直しを命じられた英邦はまず製造側の声を聞いてこいと製造会社へ移動させられる。地道に製造会社の現場を聞いて回ると赤字は販売会社のせいだという。一方前にいた販売会社側では製造会社に文句を言っていた社員が多かった。互いが責任をなすりつけ合うばかり。一番の問題点は両者が対立することで販売会社が接する客の声が製造会社に届かなくなっていたこと。そこで英邦は別会社だった製造と販売をひとつに統合することを提案。その後その社長に就任した。しかし仲の悪かった同士すぐに連携などできるわけがなかった。一つの方向に導くためにどうマネジメントしていくか。創業家ならではの上意下達。いわゆる「トップダウン」なのか、白から意見を吸い上げる「ボトムアップ」なのか。英邦は部長以上の役職者を熱海の旅館に集めた。コクヨを変えた「熱海合宿」だ。まず本気度を示すために「3年以内に黒字にならなかったら僕は責任を取って辞めます。」と切り出した。英邦は自分の覚悟を伝え参加者にも思いを吐き出させた。当時製造側の部長だった内藤もこの合宿へ参加していた1人だった。熱海合宿がきっかけで生まれたオフィス家具が「サイビシリーズ」。外資系企業には高級感あるデザインが好まれるのでは、と販売が製造に伝えて開発した。従来品と比べ3割ほど高い価格帯だったが狙いがあたりヒット商品になった。英邦にとってもこの経験は大きいものになったという。熱海での合宿のおかげか赤字転落から3年後、約1億円の黒字化を果たした。

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SAIBIコクヨ日本経済新聞熱海(静岡)

そのころ4代目社長の章裕は社長最後の大仕事、後継者選びに頭を悩ませていた。これまでのコクヨは創業以来黒田家が経営を担ってきた。特に2代目社長のしょう之助がそのカリスマ性で会社を大きく育て上げた。だがいつからか社内には閉塞感が漂い、様々な問題が表面化していた時期でもあった。ここで章裕にも大きな岐路が。息子・英邦に社長を託すのか、別の人間に託すのか。章裕の決断はゼロからのスタート。外部から社外取締役を招き、次の社長を選考する人事委員会を立ち上げた。フェアな目で次期社長を選ぶため章裕は選考を委員会に委ねた。その1人が電子機器メーカー「オムロン」の元社長・作田久男さん。作田さんは章裕に「自分としては黒田にはこだわっていない。コクヨの社員を引っ張ってくれる人が社長になってくれたらいい。」と言われたという。候補は英邦を含めた社内からと外部から招いたプロ経営者の合わせて6人。数ヶ月に及ぶ選考の末、人事委員会が指名したのは英邦だった。だがそこですんなりとは決まらない。というのも社長の章裕、当時副社長だった章裕の弟・康裕、そして英邦の3人で話し合いの場を持つことに。「まだ若い」という2人のやり取りにすっかりやる気になっていた英邦はビジネス人生で最大岐路を迎えた。父と叔父の判断に任せるのか、自分の意志を伝えるのか。英邦の決断は「僕にやらせてほしい」と2人を説得することだった。2015年、英邦は39歳の若さで創業家の5代目としてコクヨの社長に就任した。とある日、コクヨの品川オフィスを訪ねると若手社員とコミュニケーションをはかる英邦の姿があった。現場の声を積極的に汲み取り、社員たちがチャレンジしやすい環境を作る。これまでの創業家のトップダウンからボトムアップへ。それが英邦流のマネジメントだ。

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文明堂東京 宮崎進司 トップへの岐路

京都・清水寺の大講堂にとある企業の社長が現れた。目的は「日本婿経営者フォーラム」。カステラでおなじみの「文明堂東京」の社長・宮崎進司(49)。「婿経営」とはファミリー経営の娘婿が社長を継いで会社経営をすること。主催者に会の目的を聞くと「自分も婿経営者だが、全国で婿経営者が集まった会がない事に気づいて、相談や悩みを打ち明ける場があれば良いなと思ってやった」と話す。参加者の婿経営への思いも様々。しかし会場を清水寺にした理由は「婿になるということはある意味清水の舞台から飛び降りるくらい判断が厳しいから」とのこと。開催日の6月5日は「ムコの日」だそう。この日、自身の体験を赤裸々に披露したのはうどんすき発祥の店として250年以上の歴史を誇る「美々卯」の婿経営者・江口さん。さらに清水寺の僧侶による事業承継の心構えや、専門家による学術的視点からの「婿経営講義」。いまそんな婿経営がビジネス界で注目されているという。文明堂東京社長の宮崎さんはどんな婿経営の道を歩んできたのか。宮崎進司のプレイングマネージャーの岐路、その波乱の半生に迫る。

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長寿企業を生み出すファミリー企業だが、一方で長年後継者問題も抱えている。創業家以外の人材に経営を委ね、然るべき時に再び創業家が経営を掌握ケースがあったり、女性の社会進出が一般化したいま、創業家出身の女性社長も多く生まれている。一方でかねてからよくあるケースが「婿経営」。創業家の娘婿を後継者にし、事業を存続する経営。そんな婿経営者の1人として今回取り上げるのが120年以上の歴史を誇る老舗、カステラでおなじみの「文明堂東京」の宮崎進司社長。宮崎産は思わぬことがキッカケで文明堂の娘婿となり、30歳という若さで社長を継いだ。宮崎さんは社長になった3年後に日本橋本店をリニューアル。「文明堂」で長年愛され続けてきたカステラだが、見た目は同じでも種類は色々ある。「特撰五三カステラ」は数字に秘密がある。使用する卵の割合が卵黄5:卵白3だそうで、「卵黄をより多く加えることで深いコクと見た目の黄色さで更に美味しくなる」とのこと。さらに烏骨鶏の卵を使った高級カステラ「希翔」も。自慢はカステラ以外に「バームクーヘン」も。伝統を活かしながら宮崎さんは伝統の菓子に革新を取り入れてきた。例えば「おやつカステラ」は手土産として使われていたカステラ需要を子ども・家族向けの自宅土産へと用途を広げた。また、夏に向けて入成分を加えることで固くならず、かつしっとり味わえる「文明堂のカステラ はちみつレモン」も。そもそもカステラは糖質・タンパク質などエネルギー源が豊富なお菓子。そこに目をつけた宮崎さんは2年前に画期的な商品を生み出した。その商品を愛用しているという人物がフィギュアスケーターの樋口新葉さん。2022年・北京五輪の団体戦で銀メダルを獲得したトップフィギュアスケーター。樋口さんが推している「V!カステラ」の特徴は、従来のカステラより細いフォルム。水分量を変えずに圧縮することで従来の栄養価を維持したまま口の中がぱさぱさにならず食べやすくなった。これまでとは一線を画したやり方で新たな文明堂を作りあげてきた宮崎さんだが、ここにたどり着くまでの道のりは困難な岐路の連続だった。

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文明堂は1900年に長崎で創業。創業者の弟・宮崎甚左衛門は独立後、1922年に東京に進出。その後、百貨店に出店すると、客の前で切り分けて販売する日本初の実演販売が評判を呼んだ。そして甚左衛門は子どもたちにのれん分けをし、それぞれ独立した会社として運営させた。そんな文明堂が全国各地で人気を呼んでいた頃、宮崎さんは3人きょうだいの次男として誕生。当時の名前は大野進司。父親は警察に勤めていた。特に夢もなく一橋大学を卒業すると、大手電子メーカー「三菱電機」に入社、半導体部門の営業担当に就いた。出世にもさほど興味はなく、ただ目の前の仕事をこなす毎日だったという。そんな宮崎さんが仕事に情熱を傾け始めたのが入社5年目。三菱電機と日立製作所が半導体事業を統合した会社「ルネサス テクノロジ」を設立することに。宮崎さんはその統合に向けた事業に参加することとなった。しかしそこから宮崎さんは運命という激しい渦潮に飲み込まれていくこととなる。きっかけは当時交際していた動機の社員・宮崎藍さん。2人はいよいよ結婚という流れになったが、藍さんから思いも寄らない事実を打ち明けられる。藍さんの父親はのれん分けされた文明堂の中でも主力の1つ「文明堂新宿」の社長だった。きょうだいがいないことは知っていたが、深くは知らず、個の時に突然「後継ぎになる可能性」が出てきた。当時28歳の宮崎さんが直面した岐路は、文明堂の跡継ぎを視野に入れて入社するのか、そのまま「ルネサス」に残って働く道を選ぶのか。その答えを宮崎さんは藍さんの父を訪れて直接話した。「大野のままでいかせて下さい」と伝え、「いいよ」と言ってもらえたという。そんな宮崎さんの決断について藍さんに聞くと「そうかなと思った。そうだよねって。父の社長業が大変だったことも分かっていたし、会社経営するのが難しいのを子供の時から見ていたから」などと話す。

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宮崎さんと藍さんは2003年に結婚。宮崎さんはそのまま「ルネサス」に身を置き充実したビジネス人生を歩んでいく。その頃の宮崎さんをよく知るのが三菱時代の同期で現在は世界的半導体メーカー「インテル」日本法人で社長を務める大野さん。大野さんは「半導体事業をやるなかで宮崎は中心的なところにいたし、そのまま会社に残って仕事をするという決意でやっていたように見えた」と話す。結婚から2年後、宮崎さんの運命は想像し得ない方向へと動き始める。藍さんの父親が病で倒れた。それにより宮崎さんの考えに変化が現れていく。2006年、宮崎さんは意を決して「ルネサス」を退職し「文明堂新宿」に入社。その決断に妻・藍さんは「ありがたいと思いました。大変なのは分かっていたので」などと話す。しかし入社初日、1本の電話が宮崎さんの心を大きく揺さぶった。それはホテル「センチュリーハイアット」で開かれる株主総会の日。宮崎さんは取締役としてのお披露目もかねて出席することとなり、近くの公園でスピーチの練習をしていた。するとそこに社長秘書から電話が入り、「突然ですが大野さん。あなたがきょうから社長です。つきましてはきょうの株主総会は大野さんに仕切っていただきますのでよろしくお願いいたします」と伝えられた。それは秘書を介した社長からの後任オファーだった。

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宮崎さんの前に再び現れた岐路。30歳で文明堂の社長になるのか、それとも「社長はまだ早い」と固辞するのか。宮崎さんは「取締役となった以上はいつかは社長にならなくてはいけないのもあり得る。ただそれは能力が関係するのでどうなるかわ分からないながらも、『大きな運命の中で決まっているのでは』みたいな思いにだんだん変わっていった。株主総会の部屋に入って『はじめまして。きょう社長になるものです』と言い、そこでバタバタと人生が変わっていったという感じ」と話す。成り行きに翻弄されながら2006年、宮崎さんは正式に「文明堂新宿」の社長に就任。しかし突然社長として入ってきた宮崎さんに戸惑いを隠せない社員も。当時文明堂新宿の営業部長だた肥留間さんは「第一印象は、髪の毛ツンツンしていて『なんだこいつ』と思った。若造ですよ。大丈夫か?って不安だったけど、初めて話すと『色々教えて下さい』って謙虚に。もう話をした瞬間に『ああ この人大丈夫だ』と思った。ただ、私より大先輩がいたので苦労されたと思います」と話す。そんな周囲を納得させるにはとにかく一から修行を積むしかなかった。まず宮崎さんは文明堂の工場の近くにマンスリーマンションを借り、職人の元でカステラづくりの修行に励む。次は店頭に立って販売を学んだ。さらに宮崎さんは自身の最大の弱点を克服すべく学校にも通った。当時緊張しがちで人前で話すことが苦手だった宮崎さんは「日本話し方センター」でトーク力を磨いた。もがき続けながら必死に前に進んでいく当時の宮崎さんについて藍さんは「大変さをあまり見せないようにしていた。夜中に目が覚めて隣を見ると目がギンギン。『仕事が大変なんだな』と思った」などと話す。そんな宮崎さんに一世一代のおお仕事が降りかかる。それは暖簾分けした全国6社の文明堂の東京エリアを1つにまとめようという一大統合プロジェクトだった。同じ文明堂ながら客の奪い合いで売り上げを落とし、3社もろとも赤字転落していた。そこで宮崎さんはまず新宿と日本橋の合併から動き出す。本社は当時自社ビルだった日本橋に置き、社名は「文明堂東京」にすることでお互いに合意。さらに主力商品のカステラも商品名とパッケージは新宿のカステラを踏襲、レシピは日本橋のカステラを使用。両者のプライドを守りながら折り合いをつけた。こうして日本橋との統合に道筋をつけた宮崎さんは2010年に「文明堂東京」の社長に就任。後に銀座も統合し、見事大役を果たした。しかし宮崎さんにはファミリー企業を承継するうえでもう1つの難題が待ち受けていた。

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難題とは「改姓」。宮崎さんは「苗字は変えないとの許可を得て大野姓のまま結婚した。ただ、文明堂に入るといわゆる”老舗”と言われる企業で苗字=同じ氏で継いでいくことの重要性を徐々に感じてくる。入社から数年で『宮崎姓にしたい』と思い始めた」と話す。そこで会長夫婦の養子となり「大野」→「宮崎」に改姓することを決意。さっそく実の両親に報告に出向くと両親は「それはダメだ!」「苗字は変えない約束だった」と猛反対。反対の理由は婿養子になって苦労している人を身近で見てきたからだという。ここで現れた岐路は「両親の反対を押し切って改姓」or「両親の了承を得るまで改正しない」。宮崎さんが出した答えは「誰かが不幸になることではないので、しばらく待とうと思った。『はい、分かりました。じゃあやめます』と。それから何回かチャンスがあったが断念した」とのこと。その後、宮崎さんが苗字を変えたのには涙のワケがあった。

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「プレイングマネジャーの勇断~トップへの岐路~」は「テレ東BIZ」「U-NEXT」で配信。

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文明堂東京 宮崎進司 トップへの岐路

文明堂創業家の婿養子になることを一度は決意した宮崎さんに対し、両親は頑なに反対。転機が訪れたのは2020年、会長の宮崎正宣さんにがんが見つかり、医者からは余命半年の宣告がくだされた。宮崎さんは「会長が旅立つ前に何としても報告したい」と両親のもとに駆け込んだ。すると覚悟が伝わったのか「わかった」「頑張れよ」と認めてくれたそうで、宮崎さんは愛知県にある大野家の墓に出向き、宮崎家に入ることを先祖に報告。その後、妻・子どもたちの理解を得て養子縁組届を提出した。「宮崎進司」として会長の病室を訪れると、静かに喜んでくれたという。いま宮崎さんは文明堂の社長としてだけではなく、街全体の活性化にも力を入れている。その鍵となるのがサッカー。日本フットボールリーグで戦う「クリアソン新宿」の活動を宮崎さんがサポートしている。人脈を活かし、新宿の店や企業を巻き込む宮崎さんは、いまやすっかり地域の世話役に。思いもよらぬ婿経営者となり、試練を乗り越えた宮崎さん自身の跡継ぎはどう考えているのか聞くと「(子どもは)20歳の女の子と17歳の女の子です。本人たちが決めることだと話していて、僕は特に”お婿さん経営者”なので『自分の会社』という認識より、『預かったもの』と思っている。その会社にいるみんなはこれからも幸せにならないといけないと思うけど、幸せになれる・させられる人が誰なのか?ということなので、それが子どもたちなら最高だし、違う人でも受け入れるべきだと思う」と話した。

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