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オープニング映像。
東京・上野にて田中一村展 奄美の光 魂の絵画が開かれている。田中一村のスケッチや資料を含むおよそ300点を展示した過去最大規模の展覧会。美村里江お目当ての絵は初夏の海に赤翡翠。今から62年ほど前に絹に描かれた日本画。中央の岩に佇むのはリュウキュウアカショウビン。その周りには奄美の植物が。その周囲には奄美の植物が。精緻を極め、濃密な色彩を残している。背景には奄美の空と初夏の海。鮮烈にして華麗な亜熱帯の花鳥画。
田中一村は1908年に、栃木県に生まれ5歳のときに東京に引っ越した。7歳のときの作品は、その卓越した筆使いで、彫刻家の父から米邨という画号を与えられた。早熟の天才は、すでに一途で頑固な少年だったというが画面の欠損は父が筆を入れたのが気に食わず破り取ったものとされる。その圧倒的な画力で気鋭の南画家として頭角を現す。点描による水面のきらめきの絶妙。全国美術家名鑑に最年少で名を連ね神童と呼ばれ18歳で東京美術学校日本画家に現役合格したが2ヶ月で退学した。学校の記録には、ただ家庭の事情とされていた。その後、一村は画壇に属さずに師匠も持たずに独立独歩で絵画の道を歩み続け新しい日本画を生み出そうとしていた。しかし支援者たちの賛同を得られずに苦悶と模索の日々を重ねた。転機となったのは白い花という作品。画号を米邨から一村に変えた最初の作品。ヤマボウシの白の花と緑の葉の爽やかなコントラストでトラツグミと呼ばれる研ぎ澄まさた迫真の描写で第19回青龍展で39歳で待望の初入選を果たす。その翌年に出品した秋晴は自信作だったが落選。その後10年はいろいろなコンクールに挑んだがことごとく落選した。日本画家の荒井経さんはそもそも審査をされることが嫌で、自分の絵の価値は自分で決めると答えた。
田中一村は47歳でスケッチ旅行を行った。九州や四国のあたたかい風土に魅力を感じたのか、さらに日本の南端を目指し縁もゆかりも無い奄美大島への移住を行った。その時50歳。それまでの人生を決別するための決断だった。あやまる岬は一村がスケッチに訪れた場所。奄美は驚きと発見に満ちていたという。みたことのない植物や造形の色彩に夢中になって筆を走らせた。喜ぶと感動を胸に、さらなる飛躍を誓った。5年間働いてお金を貯め3年は絵画に専念。そして最高の到達点である絵を描くとした。また住居は節約のために隙間だらけのあばら家暮らしだった。食料は庭で野菜を栽培し自給自足。また仕事は地元で生産する大島紬の糸に着色する擦り込み染めの染色工として働き続けた。その5年後には染色工のしごとをやめて東京の専門店から日本画の顔料や高価な絵絹を購入し絵筆を握った。奄美の郷に棲紅蝶は強烈な生命のほとばしりを鮮やかな岩絵具をふんだんに用いて、見つめ続けた自然の営みに深い愛情と畏怖を込めて奄美と日本画の見事なコラボレーションも。不喰芋と蘇鐵という作品は、その到達点。魔除けの意味をもつクワズイモの花の誕生から終焉までを1枚の絵に収めている。隙間から覗くのは神が通過されると岩の立神。
保宜夫さんは母が田中一村と同じ紬工場で働いていたという。さらにその夫婦の肖像画を描いてもらったという。そして今回特別に田中一村が過ごした小屋の中を見せてもらった。農機具倉庫の一角を借りた3坪ほどのアトリエ兼住居。全く無名の画家として生涯を終えた。
47年後の今では東京で田中一村の大きな個展が開かれている。田中一村はその生き方を過去の偉大な画家たちと比較されてきた。ある時は南国のタヒチに新たな題材を求めたフランスの画家になぞらえて日本のゴーギャンとして。またある時に熱帯のジャングルをテーマとして描いたアンリ・ルソーを彷彿とさせる画家として。さらに伊藤若冲の絢爛たる色彩のように一村もまた濃密な色彩と精緻な描写の花鳥画で昭和の若冲と呼ばれた。しかし最大の魅力は一村の深淵な筆致にある。
極彩色の印象が強い一村の作品だがその最大の特徴は黒にある。枇榔樹の森は美しいモノクロームの世界。この黒がどう美しいのか?日本画家の荒井さんは墨の使い方が革新的だと思ったという。作品の一部を再現してもらった。
濃さの違う3種の墨と高価な絹でせきた絹本という画面を使う。あらかじめ用意した下図の上に絹本を重ねた。つけた下図にしたがって、中濃度の墨と最も薄い墨で塗り分ける。その際に間に細い塗り残しを作り絵絹本来の明るさを際立たせる。次に水を含ませた筆で絵絹を湿らせて素早く筆を持ち替えて少し濃い墨をなじませるようにのせると繊細なグラデーションが生まれる。一村は一枚の葉で、この作業を3、4回を行っているという。最後は別の下図にかえて最も濃い墨で描いていく。濃さの違う墨による美しいグラデーションを讃えた枇榔の葉が完成した。にじみや筆跡のない写実的な墨の表現。一村は奄美に来てからも常に新しい絵画を求め様々な技法に挑み続けていた。
奄美で初めて目にする生き物の色彩や造形を持てる限りの技術で描く。50歳で人生を変えた男の奇跡のような絵画。美村はアダンの海辺を気に入っていると答え、その海辺のグラデーションがすごいと答えた。
一村は自身の死後に自分を認めてくれる人がいればいいと生前語っていた。その死から24年後に奄美市に田中一村記念美術館が開館した。現在は作品や資料、およそ480点が収容されている。田中一村展 奄美の光 魂の絵画はもうすぐ会期が終了する。
新美の巨人たちの次回予告。
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