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オープニング映像。
台湾にやってきた和田彩花。台北駅から電車とバスで乗り継いで1時間半の道のりに九份がある。今日は知られざる九扮を楽しんでもらう。標高300mほどの山間に位置する九份は斜面にへばりつくように建物が続く独特の景観をしている。決して便利とは言えない場所だが年間330万人の観光客が訪れる。まずはメインストリートへ。基山街は800m続くが土産物が飲食店が並んでいる。九份は2つのメインストーリーを中心に急勾配の階段を登っておりて、複雑な地形を味わうのが楽しみ方。急な階段状の路地にそって台湾茶が飲める茶藝館が立ち並ぶ。1920年代の建物をリノベーションした木造和風様式の茶藝館の阿妹茶樓。店内は奥行きがなく、すぐに2階、3階へとあがれる地形に合わせたつくり。台湾茶を飲みながら美しい風景を楽しめる。
九份の歴史的まちなみを一望できる最も人気のある場所は日が暮れると絵画のような美しい夜景が見ることができる。提灯の明かりに照らし出される夢の中のような幻想的な光景は、複雑な地形が建物の陰影を強調し奥行きと一体感が生まれる。きらびやかなのにどこかノスタルジックで、また九份には年間300日も雨が降る。通りを往来する人の傘も夜景を彩るアクセントに。台湾が世界に誇る美しい光景。しかしわずか40年ほど前は時代に取り残された過疎の町だった。提灯に照らされ、大勢の人が賑わう場所にも店は一軒もなかった。そんな九份を今の街にするきっかけを作った人がいる。
洪志勝さんは九份茶坊のオーナーで画家でもある。九份茶坊は築100年以上にもなる九份の最も古い建築をリノベーションした茶藝館。台湾の建築様式はオランダ統治時代のもので、清の時代に中国大陸から入ってきたもの。日本統治時代、戦後、現代と時代ごとに様々な様式を取り入れて時代ごとに変化していった。九份茶坊の中国の伝統的な様式と日本の様式が混在して、どこか2国籍で魅力に。店の奥には洪さんの絵や台湾のアーティストの絵が展示されているギャラリーが。今からおよそ30年前に洪さんが描いた九扮の街は暗い印象があるが20年の閑散期を経て観光地として二度目の春を迎えた独特の歴史を持っているという。
色とりどりの商店が立ち並ぶ今の九份だがかつては雨漏りを防ぐためにコールタールで黒く塗られた屋根に覆われた色彩の欠けた街だった。五番抗があるが金が見つかる場所で抗員があつまり金を採りにここに来ていたという。かつては小さな農村で1893年に金鉱が発見され九扮に最初の春が訪れた。最盛期には5万人の人が周辺で暮らしていた。九扮はゴールドラッシュに沸き立ち大金を手にした抗員たちは着飾って街へ繰り出したという。博物館にはこの地でとれた220.3キロの金塊があり価値は30億円に。昇平戯院は映画館で、賑をみせていた。しかし街の享楽的な雰囲気は抗員たちの過酷な労働と表裏一体。九扮で民宿を営む陳シ勇さんは抗員だった父を亡くしたという。その平均年齢は短く、肺の病気や晩年になると自分の力で立つことができなくなる抗員も多かったという。
和田が抗山へむかったが夢があるが辛いことも多かっただろうと答えた。1971年には金脈の枯渇で閉山。九扮は空き家だらけの閑散とした街になっていた。そんな九扮が一躍世界の注目をあびることになる。
標高300メートルほどの山間にある九扮。街明かりが幻想的な景観を生み出している。そんな美しい姿を生み出したきっかけになった人たちがいる。茶藝館の九份茶坊のオーナーで画家の洪志勝さん。1980年代に末に洪さんがみた九扮は寂れた街だったという。九扮に移り住んだ洪さんは夢のあとのような静けさがもどった家並みを描き、発表し続けた。目まぐるしく変化する時代の中でいつもそこにあった美しさを残した。時を同じくして九扮を題材にした台湾映画の「非情城市」は日本の統治が終わった1945年から中国国民党が台湾にやってくるまでの四年間の歴史に翻弄された一家が描かれた。監督の侯孝賢はかつてのまばゆい輝きと、それが失われた深い悲しみを讃えた九扮を人々の生きざまに重ねた。1989年に公開されるとヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。2年後に、洪さんは古い民家を改装。最初の茶藝館の九份茶坊を開いた。すると後を追うように茶藝館やお店などが続々と誕生し賑が戻ってきた。九扮は2度目の春を迎えた。九扮を拠点に活動するアーティストは他にも。胡達華さんは釘絵作家で色彩に溢れた九份を描く。この場所に魅了された人たちが美しさを作品に変えて新たな物語を作り続けている。
九份で最も高い場所にある街が一望できる場所は廃墟の頃の九份にタムスリップしたかのよう。
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新美の巨人たちの次回予告。
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