- 出演者
- 有働由美子 萩本欽一 水谷豊 黒柳徹子 松井秀喜
松井秀喜は巨人のユニホームを脱ぐことになった長嶋茂雄監督の最後の姿をグラウンドで見つめたときも涙が出そうになったと振り返った。「だって、それまで9年間毎日見てもらってたわけじゃないですか。その日々が終わると思うだけでもその日々を思い返す、一瞬にして。それだけで、もう本当に泣きそうになった」と語っていた。東京ドームの最後の試合が最後の素振りだと思ってやった。そしたら、もう1試合だけ甲子園が残ってた。甲子園に移動する日、朝移動して試合にこれから行くという時に部屋に電話がかかってきて監督から「今日もやるぞ」っていわれ「昨日の涙は何だったんだと思った」とコメントした。
メジャー挑戦の2年目、長嶋茂雄が脳梗塞に倒れ病院に緊急搬送された。松井氏は当時を振り返り「私が2年目のシーズンが始まる前に病気になられた。そのあとは、ただ喜ばせたい元気な姿を見せたい自分が活躍すれば絶対喜んでくれるはずだってその一心だった。長嶋さんを喜ばせたいとバットを振り続けていたという松井はこの年、メジャー自己最多のホームラン数を記録した。巨人時代だけでなくヤンキースの松井を奮い立たせていたのもまた長嶋さんの存在だった。
2025年6月3日、長嶋さんが亡くなり告別式で松井が弔辞を読むことになり冒頭「監督、きょうは素振りないですよね」とコメントした。
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去年6月、長嶋さんの告別式で弔辞を務めた松井は「監督今日は素振りないですよね。その目を見ているとバット持ってこい、今からやるぞと言われるようでドキッとする。でも、今はその声を聞きたい。監督はひとたびユニホームを着てグラウンドに出ると強烈な光を発し、私と2人で素振りする時はバットマン長嶋茂雄になった。それが私の日常だった。私は長嶋茂雄から逃げられない。これからもそうだと思う。これからも監督がなぜ私だったのかなぜ私にたくさんのことを授けてくださったのか。その意味を、その答えを自分自身の心の中で監督に問い続けたい。今度は私が監督を逃がさない。、今日はさようならも私は言わない。今後も引き続き、強烈な光でジャイアンツの、日本の野球の未来を照らし続けてください。」と読み上げた。
長嶋さんと松井が二人三脚で作り上げた技術や思いはまた新たな形となって受け継がれようとしている。松井はヤンキースの現在の中心打者、アーロンジャッジをマイナーで見て指導したことがあるという。松井はジャッジの印象について「持っている元々の体の強さパワー足も意外と速くて守備もうまい、肩も強い。ちゃんと成長したらとんでもない選手になる」とコメントした。去年、大谷率いるドジャースとの戦いで1試合2本のホームランを放ったジャッジ。去年は53本塁打、リーグMVPを3度受賞しているメジャーを代表する強打者だ。松井はマイナーで指導していた頃のジャッジについて「バッティングに関しては当時、まだだいぶもろさがあるというか、ボール球すごい振ってたので三振がすごく多かった」と振り返った。有働は「ジャッジは松井に指導してもらったおかげで飛ぶようになったって言ってたが、何を言ったらそう変えられたのか」と質問。松井は「私が言ったのは下半身の使い方とトップの位置。彼は独特のタイミングの取り方をしてなおかつ打つ時にすごいステップが広かった。ということは体も前にもちろん行っちゃうのでパワーもロスしているし、前に行くから後ろの足にたまってない。なおかつ自分から打ちにいくっていうことはピッチャーとの距離も損している。もっとステップを短くしたほうが狭くしたほうがいいんじゃないかなと。あまり強制しちゃうとあれなんで自分はそう思うよみたいなことは言った」と説明した。また「ここ何年かの彼のバッティングを見てるとステップ幅すごい狭い。僕じゃないとは思うけど多分、彼なりに経験を積んでこのほうがいいんだなっていうことを多分ほかのコーチに教えてもらったのかわからないが、素晴らしい打ち方になってるなと思う」と評価した。
有働由美子は「ある意味、育てるとか見守るとか、その選手が活躍するホームラン王になっていくっていうのを見るのはまた選手時代と違うのか」と質問。松井は「ジャッジに関してはただ応援してるだけで自分が教えたからとかそういうことよりもただ、ヤンキースの選手として頑張れって思ってるだけで自分がちゃんと教えた選手というのはまだ一人もいない。そうなった時に初めてどういう感情になるかわかるんじゃないかなって思う」と答えた。
2024年2月、松井は6年ぶりに臨時コーチとして巨人の宮崎春季キャンプに姿を見せた。時にはバットを持ち1対1で指導、阿部監督と話し込む場面もあった。阿部監督は「松井さんは若い頃にジャッジとか見ててそういう体験談も話してくれましたし、必ずプラスにはなると思っている」と語った。松井は「選手たちとだいぶ意見交換することもできましたし、選手たちも積極的に来てくれましたのでいい形で彼らの背中を押すようになっていればいいなとは思っている。自分の目から見てそれぞれ課題違うなと思うこともあるし同じだなと思うこともあるし。実際に接してみないとわからない部分があって、色々な部分で私自身も勉強になった」と話していた。
有働由美子が松井に対し「日米両方でもう一度ユニホームを着て着ることができる可能性が大いに残されてるが、次はどっちで着るのか?」と質問。松井氏は「なんかもう決定事項みたいな言い方するのやめて」とたしなめたが、有働は「巨人からオファーが来ましたいずれ、将来。どうしますか?」と再質問。松井氏は「自分の中で指導者という立場でどこのユニホームを着るのが一番自然で一番自分の熱が熱くなるかと言われたら恐らく巨人なんじゃないかなと思う、やっぱり。そういう気はする」と語りながらも「今、本当に素直な気持ちで阿部慎之助を応援している。それはもう間違いない。本当に頑張ってほしいしやるんだったら何年でもやってほしいしそんな気持ち」と答えた。
犯人から刑事まで変幻自在に演じてきた俳優、水谷豊。キャリアのスタートは12歳。しかし、常に「自分にはもっと合ってる世界がある」と思い続けていたという。
水谷豊が俳優を目指したのは12歳のとき。劇団ひまわりに入団し、子役としてキャリアをスタート。14歳になると連続ドラマの主演を任される。バイト感覚だった当時出演した「太陽にほえろ!」。犯人役に抜擢され、萩原健一演じるマカロニ刑事に追われる。2年後、「傷だらけの天使」で萩原の相棒に抜擢され大ブレイクを果たす。いまなお語り継がれる最終話、風邪をこじらせたアキラをおいてオサムが出ていくシーン。水谷は「ショーケンさんも結婚したばっかりだった。家に遊びに行って一緒に風呂に入った。兄貴と弟みたいな役でしたからね。距離を縮めようと思ってくれたんじゃないかと思う」などと話した。
「傷だらけの天使」では水谷が大きな影響を受けた俳優・岸田森との出会いもあった。3年前に出版された「水谷豊 自伝」(水谷豊、松田美智子著/新潮社刊)に刻まれている名前、松田優作。出会いは3回目の出演となった「太陽にほえろ!」。ジーパン刑事役で大人気となった優作さん。水谷と優作さんはかつての友人同士を演じた。この出会いをきっかけに本当の兄弟のように親しく付き合い、無二の親友として共に過ごす時間が増えていった2人。30歳を過ぎたころ、同じ時期に体調を崩す。優作さんが患っていたのは膀胱がん。最後の入院から1か月足らず、優作さんはこの世を去った。40歳という若さで失った無二の親友。そのときの思いが自伝に綴られている。水谷は「いまあるのは出会ったおかげ。前に向かっていくエネルギーを与えてもらっている感じ」などと話した。
高視聴率を叩き出した国民的ドラマ「熱中時代」。水谷豊演じる新米教師「北野広大」。家族の事情で故郷、北海道に帰ることになった北野先生。3学期の終業式のシーンでは児童1人1人に通信簿を手渡す。役ではなくその人物になりきる、そのこだわりが俳優水谷豊を作り出してきた。25年演じ続けている「相棒」の杉下右京。水谷は「いつも仕事が終わると早く忘れてほしいと思うんですよ、自分のことを。忘れてもらわないと次の役にいけなくなるから」などと話した。
水谷豊が25年演じ続けている「相棒」の杉下右京。スタートは2時間のスペシャルドラマ。頭脳明晰な切れ者でちょっと嫌味なキャラクター。右京と共に番組の顔となった歴代の相棒たち。常に進化を続けてきたドラマ「相棒」、杉下右京の25年に迫る。水谷は「杉下右京っていうのは言ってることはほんとに合ってるんですよ。ただ言うタイミングとか、社会的な人ではない。安心して嫌な人を演じることができたのは言ってることが正しいから」などと話した。
「相棒」25年の歴史では、劇場版も含め数々の名シーンがあった。撮影監督・会田正裕が特に印象に残っているシーンは2008年公開の劇場版第1弾、西田敏行演じる事件の黒幕と杉下右京が取調室で対峙するシーン。「相棒」は毎週水曜よる9時放送中。水谷は「あるときできる限りやってみようと思った瞬間があった。それは娘ができた時」などと話した。
水谷豊の人生の“相棒”、伊藤蘭。当時人気絶頂だったキャンディーズの蘭さん。2人はドラマでの共演をきっかけに交際。1989年、結婚会見を行った。翌年生まれた愛娘の趣里。2011年、俳優の道へ。2023年には朝ドラの主演を務め、俳優として躍進。水谷は「11月になると『来年は本気出すよ』って口ぐせがある。映画の自主制作して仕上げをやってるときに、ああ始まったなと思った、自分の世界が。初めての感覚」などと話した。
「木梨憲武のスポーツKING!」の番組宣伝。
テレビのお笑い番組と言えば台本にのっとるスタイルが主流だった時代、それを打ち破った萩本欽一。1976年に始まった「欽ちゃんのどこまでやるの!」。素人同然だったタレントを数多く起用しスターに押し上げた。わらべの曲「めだかの兄妹」も大ヒットした。萩本が聞く!有働の人生を変えた言葉は?、有働は「NHKを辞めるときに一番信頼しているプロデューサーがおまえいまいかないとNHKの中で死ぬぞって言われて、最後の背中を押してもらいました」などと話した。対談もアドリブに継ぐアドリブ。ただただ喜んでもらいたいという思いで行き着いた欽ちゃんの流儀。
欽ちゃんのアドリブのルーツは少年時代。シャイで極度のあがり性だった性格にあった。高校卒業後コメディアンを目指して浅草で下積み生活を始める。せっかく覚えた台本も極度のあがり性ですっかり忘れる大失態を繰り返した。開き直って身につけたぶっつけ本番のアドリブ。1966年、コント55号を坂上二郎と結成。マイクの前に立たず、動き回りながら即興で、画期的な芸風に日本中が驚き、大いに笑った。萩本は「台本書いたらコントじゃない。台本書いたらそれはコメディー」などと話した。
コント55号によるアドリブ全開のコント。コント55号が「個展」を披露した。
