- 出演者
- 松嶋菜々子
今回は「天才バカボン」を特集。生み出したのは漫画家の赤塚不二夫。決め台詞の「これでいいのだ!」には赤塚不二夫の壮絶な戦争体験があったという。
オープニング映像。
今回の運命の分岐点は1967年3月25日。週刊少年マガジンで「天才バカボン」の連載が始まった日だ。最初の視点は「天才バカボン」の編集担当の五十嵐隆夫だ。当時2年目の新人編集者だった五十嵐隆夫が見たのは笑いの追求に手を抜かない赤塚不二夫の異様な姿だったという。
五十嵐隆夫はかつて赤塚不二夫の仕事場があった場所を訪れた。そこで五十嵐隆夫はバカボン誕生の舞台裏について語った。当時は「巨人の星」や「おそ松くん」などが人気だったという。そうした中で週刊少年マガジンから「天才バカボン」の連載が開始された。作品からは有名キャラが次々に誕生し、五十嵐隆夫はこれらの有名キャラの誕生の瞬間にも立ち会ったという。五十嵐隆夫はギャグを作るためなら誰の意見でも採用したという。そこでアイデア会議を行なっていたと伝えた。
そして面白さを追求する赤塚不二夫は1969年に少年マガジンから少年サンデーに「天才バカボン」を移籍させたという。当時引き抜きはタブーだったが、赤塚不二夫はそれを面白いと思って実行したという。しかしその後、「天才バカボン」は再び少年マガジンに戻ったという。赤塚不二夫にとって「天才バカボン」は笑いを追求する実験場だったのだという。
次の視点は作者の赤塚不二夫。1935年に生まれた赤塚不二夫は戦争を経験し苛烈に生き抜いた過去がある。バカボンのパパの決め台詞「これでいいのだ!」が誕生したのは連載開始から1年後だ。赤塚不二夫は満州生まれということもあり、スタッフも満州や中国大陸育ちが多かったという。1945年に日本が敗戦したことで赤塚不二夫の家族の運命は一変する。父はシベリアに抑留され、赤塚不二夫と家族は終戦後に帰国するまで10ヶ月を要したという。こうした経験から赤塚不二夫は悲劇を描くんではなく、喜劇を描こうとしたのではと伝えた。
次の視点は伴走者たち。赤塚不二夫は漫画の枠を飛び出してバカバカしさを笑いに変えて自分の人生をギャグにしていったという。そんな漫画の枠を飛び出した赤塚不二夫に伴走した人々の視点を伝える。赤塚不二夫はタモリを発掘したり、仲間とレコードを発売し、テレビでも活躍するようになった。赤塚不二夫は幅広い交流を持っており、映画監督の足立正生やジャズミュージシャンの坂田明などとも親交があったという。赤塚不二夫は次第に漫画と地続きのような日常になっていき、2008年に亡くなった。親交のあった人はバカボンのパパのように生きた彼を前向きに受け止めていたという。
番組の次回予告。