- 出演者
- 笑福亭鶴瓶 杉原凜 藤本美貴 朝日奈央 小峠英二(バイきんぐ) 佐藤栞里 田中樹(SixTONES) 丹生明里
今夜の仰天ニュースは、芸能人の大事件スペシャル。
大人気のK-POPガールズグループのきっかけとなったグループ「KARA」。KARAの出現により日本で空前のK-POPブームが巻き起こった。その中でも一際人気を集めたのが、ク・ハラ。物怖じしない振る舞いと明るい性格に多くのファンが魅了された。そんな彼女の名前が大注目された出来事が、2024年8月28日。この日韓国の国会で、ある民法改正案が可決された。その名は「ク・ハラ法」。この法案が出来るまで、ク・ハラの家族、やがては韓国中を巻きこむ骨肉の争いがあった。
2008年、KARAのメンバーとしてデビューしたク・ハラ。2009年「ミスター」で大ブレイクし、日本でも人気は爆発。様々なメディに引っ張りだことなった。渋谷の109前で敢行したゲリラライブは大混乱となり、わずか3分で中止になった。そして2013年には、K-POPガールズグループ史上初となる東京ドーム公演を成功させた。しかし2014年、ニコルとジヨンが脱退。さらに2016年には、ハラを含む3人が事務所との契約を更新せず。これによりKARAは事実上の解散状態になった。その後、ハラは別の芸能事務所に移籍し芸能活動を続けていた。2018年9月13日深夜、警察に1本の電話があった。通報してきた男性は顔のいたる所に傷があり、恋人から暴行を受け通報したという。その恋人とは、ク・ハラだった。当時ハラと交際をしていた男性、出会いは数ヶ月前でカリスマと言われる美容師だった。彼の話しによるとこの日2人は別れ話をしていたというが、突然ハラが暴力を振るってきたという。その出来事はすぐに韓国中を駆け巡った。有名芸能人のスキャンダル、しかも一方的にハラが暴力を振るったという印象の報道に、彼女を非難する声が渦巻いた。しかし報道から5日後、警察の事情聴取に応じるためハラが警察に出頭。そんな彼女の顔にも絆創膏が貼られていた。双方の言い分が全く違うこの事件、その後の警察の捜査により事実が明るみになった。
- キーワード
- AP通信KARAKARASIA 2013 HAPPY NEW YEAR in TOKYO DOMEMBCOSEN新聞社SHIBUYA109渋谷店YTNアフロギュリク・ハラサンケイスポーツジヨンスンヨンニコルミスターユニバーサル ミュージックレコ★Hits!東京ドーム
交際が始まった頃、彼は非常に優しかったという。しかし、1ヵ月が過ぎたころから異常に束縛が激しくなったという。事件の2日前、運命の出来事が起こる。仕事の合間に食事をしていると、彼から「今何してる?」と連絡が入った。この日は、マネージャーの他にもう一人男性スタッフがいたが、過剰に心配されるのを恐れそのことはあえて言わなかった。すると、ハラの彼氏からマネージャーに電話がかかってきた。これが、大変な事態に発展する。2日後の9月13日深夜0時過ぎ、自宅で寝ていると突然彼が来た。男性スタッフがいたことを言わなかったことに激怒し、ハラに暴力を振るおうとしたため彼女が抵抗すると彼の顔に傷が出来た。それにさらに激昂した彼は、ハラの裸が映っている動画を芸能記者に送ると言い出した。その後、男性は警察に被害を受けたと通報したのだった。警察は通報直前のエレベーターの防犯カメラ映像などから、この一連出来事を事実として認定した。そして事件から1か月後、ソウル中央検察はハラの彼氏を傷害罪に加え虚白剤などで起訴。一方、ハラの行為は正当防衛で不起訴となった。とは言え、芸能人としては致命的なスキャンダル。裁判で彼女は、プライベート動画の存在を自ら認めて真っ向から戦った。さらにこの裁判中、彼女は日本の芸能事務所と契約し拠点を日本に移した。KARAで来日した時、ファンと親交を深め日本が大好きになっていたハラ。2011年東日本大震災がおきた時には、1億ウォンもの寄付をしている。
事件から約1年というころ、ついに判決が出た。元交際相手は暴行・脅迫で禁錮1年6か月の有罪となったが、脅迫に使われた動画に関しては2人は恋人関係だったことから”意思に反して撮影されたわけではない”と判断され、3年の執行猶予が付いた。この一審判決を受け「ク・ハラも悪かったのでは」とのコメントで溢れた。アイドルである彼女は、被害者でありながら責められた。
- キーワード
- MBC
田中樹が以前タクシーに乗って帰宅する際、その運転手が別の芸能人を家まで送ってきたと話してきたとして、自身は芸能人だとバレなかったが、それで家がバレてしまう人もいると感じたと話した。朝日奈央は、アイドル時代に誹謗中傷だらけのファンレターを受け取ったことがあるとのこと。また、藤本美貴はアイドル時代に誹謗中傷で「かわいくない」など言われたが、自身はメンタルが強いため「こんなところに書き込んでいる人の相手をしてる場合じゃない」と思っていて平気だったと話した。
アイドルであるハラは、元彼との裁判のせいで多くの誹謗中傷を受けた。だがハラは、精力的に活動し日本で全国ツアーを行い大成功に終わった。そして、ツアーが終わり韓国に一時帰国した。2019年11月23日、彼女はSNSに「おやすみ」と投稿した。その翌日、ク・ハラは自宅で亡くなっているのが発見された。自ら命を絶ったと報じられている。自宅で発見されたのは「自分を愛せなくてごめん」という趣旨のメモだった。多くの人が悲しみに暮れ、葬儀には日本のファンも駆けつけた。そして彼女の死に最も心を痛めた人物がハラの兄、ク・ホインさん。2人は幼い頃から共に支え合い生きてきた。
28歳という若さで他界した、KARAの元メンバー「ク・ハラ」。いつも笑顔で明るかったハラだが、彼女と兄は壮絶な人生を歩んできた。1991年、韓国・光州で生まれたク・ハラ。家族は、両親と2歳年上の兄・ホインがいた。父親は工事現場で働いていたが、収入は少なく生活は貧しかったという。そのことが原因なのか、夫婦仲は良くなかった。そして、ハラが9歳の時に母が家を出て行った。その数日後、母親が出て行ったことに絶望した父が服毒自殺をはかった。その後、一命を取り留めたが2人を養うため父親は出稼ぎに行くことに。その間、子どもたちは父親の妹夫婦に預けられた。その夫婦にも2人の子供がいたが、分け隔てなく大切に育てられた。
佐藤栞里は最近番組のスタッフから、とある神社に行って絵馬を書いたかと聞かれ、身に覚えがなかったため人違いかと思ったという。しかし、スタッフが撮ったという写真には絵馬に、自身の名前と願い事と共に実家の住所が書かれていたと言い。恐怖を感じたが、字に見覚えがありそれが自身の母親が書いたものだったと判明したとのこと。また小峠英二は、数年前に知らない番号から電話が来て出たら「小峠さんですよね」と言われ、誰なのか何で番号を知っているのかと聞くも流されたと言いその後「危ないやつ」と登録しておいたとのこと。翌日もかかってきたが無視するとその後はかかってこなくなり、それに腹を立てた小峠が自ら毎日電話をかけたと話した。丹生明里は、一人でゲームセンターでクレーンゲームをしていた際に見知らぬおじさんから「取れるまで見守っててあげる」と言われ、怖くなって店員さんに助けを求めたとのこと。
いつも母親の愛を求めていたク・ハラ。やがて彼女は、アイドルになることを夢見る。ダンスのレッスン料は高額だったが、父親が必死に仕送りし支えた。そして2008年、KARAの追加メンバーオーディションを勝ち抜き見事メンバーに選ばれた。その後、トップアイドルに駆け上ったハラ。しかし、有名になっても母親は姿を見せなかった。そして、KARAの活動休止後ハラはとある行動に出る。
元KARAのク・ハラの苦難の人生について、スタジオトーク。田中樹は、自身は家族と仲が良いため仕事で頑張っているときやつらいときに頼ったり、モチベーションに変わる存在が家族だと言う。それがない中で、ク・ハラは色んなことを背負って生きていることは大変だったんだろうなと感じたと話した。また藤本美貴は、ク・ハラの兄の気持ちを思い「残念だっただろうな」とコメントした。
KARAが活動休止状態になって1年経った2017年。ハラは様々な不安からか心を病みうつ病と診断された。そして、母親に捨てられた夢を頻繁に見るようになっていた。通っていた心療内科からは、一度母親と会ってみてはどうかと提案された。9歳の時、突然いなくなった母親。17年が経ち「心の整理はついている」と思っていたが、母に対する思いは日に日に大きくなり、その頃書かれた日記には「お母さんに会いたい」と記されていた。そしてハラは、育ててくれた叔母と叔父に気持ちを伝えた。叔母は母親に連絡を取り、そして運命の日が訪れる。
9歳の時にいなくなった母に対する思いが、日に日に大きくなったク・ハラ。ハラが自宅を訪ねていくと、17年ぶりに見る母の姿があった。笑顔で迎えてくれた母だったが、そこには母の友人らしき他人が複数おり「私が有名人ク・ハラの母よ」という振る舞いだったという。さらに、強引に写真を撮る母の姿は娘との再会を喜んでいるようには見えなかった。ハラは再び傷つき、後にこの事を兄に話した。その頃の日記にも悲痛な思いが綴られていた。ハラを心配した兄が寄り添うように連絡をし、ハラも「心配しないで」と返信していた。しかし2019年11月、日本でのツアーが終わり韓国に帰国すると、彼女はSNSに「おやすみ」と投稿した翌日自宅で亡くなった。28歳だった。ハラの葬儀の最中、葬儀場に母親がやってきた。そして、母親は自分が喪主を務めると言い出した。
28歳という若さで亡くなったク・ハラ。葬儀に母親が現れた理由が明らかになる。ハラの葬儀から2日、母親の弁護士だと名乗る男が兄の元にやってきた。そしてハラの遺産について話し始めた。母が家を出てから6年後、父に電話があり裁判所で離婚手続きを行った。この時、母親は親権を放棄し子どものことに関して一切聞いてこなかった。しかし、韓国の法律では配偶者や子どものいない人の遺産は、原則として両親が5:5の割合で相続すると定められていて、離婚・再婚していて親権を放棄していても効力は失われないという。ハラは派手な生活を好まず倹約家だったと言い、不動産など数億円にものぼる資産があると報じられていた。突然、家族を捨てて出ていった母。寂しさに耐え兄妹で支えあってきたのに、妹が亡くなった途端に現れ”遺産をよこせ”とは。兄は戦うことを決意した。そして2020年3月、弁護士を雇い親権を放棄している母親の相続を認めないように裁判所に訴えることに。世間もこの騒動に注目し、父親もメディアの取材に応じた。そして父親は、ハラの遺産を全て兄に譲渡することにした。
2020年7月、裁判が始まった。兄は、ハラの遺産で育児放棄された子どもを救う財団を設立することを決意していると話した。それに対して母親は、自分にも権利があると主張し譲らなかった。当時、韓国メディアも母親に取材を試みているが、一切の取材拒否。そんな中、母親の取材に唯一成功したという人物、元テレビ朝鮮のキム・ソンジンプロデューサーによると、何とかして直接話を聞きたいと母親の自宅近くで張り込んでいたという。姿を現した母親に声をかけると、すぐに逃げ出したものの観念したのか取材に応えたという。そこで、家出の原因は夫の暴力だと主張しだした。しかし、そんな事実は確認されていない。さらに、片時も子どもたちのことを忘れたことはなかったがお金もなく会いに行けなかったと話したが、実際には近くに住んでいたが一度も会おうとしなかった。さらにハラの葬儀の日、会場の外で姉に泣きながら事情を説明したという。すると姉から弁護士に相談してみてはと提案され、そこで弁護士から相続のことを聞き権利を主張したという。さらに母は誰にも見せないと約束していた、ハラとの写真を記者に見せ自身のSNSにもアップしていた。ハラが亡くなった原因の中で、母への絶望が大きく占めていると兄は語っている。
母親との裁判が始まる直前から、兄は韓国の国会で「ク・ハラ法」を成立させたいと訴えていた。ク・ハラ法は、親として養育義務を果たしていない場合、相続する権利が一切なくなるというものだった。それには、2014年のセウォル号沈没事故で、育児を放棄していた親が亡くなった子どもの保険金の相続に名乗り出て問題になっていたことが関係していた。このことを知った兄は、法律改正に動き出していた。ク・ハラとは韓国語で救えという意味。母親との裁判までに法整備は間に合わなくても、二度と自分たちのような悲しい思いをする人が出ないように立ち上がっていた。母との遺産を巡る審判の日、裁判所が下した審判は父側が6割、母側が4割を相続するというものだった。自分たちを捨てた母親にハラの遺産が4割も渡る、兄にとっては到底納得いかない結果だった。
自分のような悲しい思いをさせない、親権放棄した親に遺産を渡すことを認めない「ク・ハラ法」を作る。兄の強い意思に10万を超える署名が集まった。母親との裁判から約4年経った2024年8月28日、「ク・ハラ法」は国会を通過。2026年1月から施行されることになったという。そして、兄はまだ諦めていなかった。
ク・ハラさんの兄の強い思いについて、釣瓶は”妹さんへの愛”で動かしたものだろうとコメントした。田中樹は、法律上では母親の権利は正しいことかもしれないが、そうじゃない部分で腹が立つと話した。法律は心情などを度外視したストレートなものだからこそ、納得いかないところもあるとのこと。
兄は亡くなったハラの無念を晴らすため他にも戦いを続けていた。ハラに対しての暴行・脅迫の罪で起訴された、元交際相手の男性に執行猶予がついたことを不服として最高裁まで戦い、ついに懲役一年の実刑判決までこぎつけた。そんな努力もあってか、ハラの動画は拡散されなかった。さらに、親権を放棄した母親に遺産の4割を渡すことになったが、母に対し別の訴えを起こした。それは、親権を放棄していても遺産を相続するなら、ハラと兄の養育にかかった費用を払えというもの。その訴えは一部認められ、6720万ウォンの支払いが命じられた。今、ハラは韓国・ソウル郊外にある納骨堂で眠っている。そこには、ファンからのメッセージがあった。ハラが生前に出演したテレビ番組で、兵役に行った兄がサプライズで登場し久しぶりの再会に泣いて喜んでいた。幼い頃から嬉しい時も悲しい時も常に支えあい歩んできた兄妹。最愛の妹を失って6年、兄は今でも深い悲しみに襲われることはあるが、少しずつ前を向いて歩んでいるという。ハラが所属していたKARAは、2022年かつてのメンバーが集まり再始動。そして2024年8月、9年ぶりに日本でコンサートツアーを開催した。
少年を苦しめる物、それは大量の”手汗”。自分は人と違うと長年悩み続けたのは、お笑いコンビ「アイデンティティ 見浦彰彦」だった。人と触れ合うことが1番怖かったと話す見浦、小学3年生のころ授業中に教科書がぬれていた。原因は大量の手汗。暑くもないのになぜかビッショリで、すぐに母親に相談した。しかし、他に症状はなく母はそれほど心配しなかった。学校生活や友達との関係でしばし支障が出ていたそれは「手掌多汗症」という病気だった。