2025年5月11日放送 10:00 - 11:00 テレビ朝日

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「告白〜僕は『ゆりかご』に預けられた〜」

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告白 ~僕は「ゆりかご」に預けられた~
告白 ~僕は「ゆりかご」に預けられた~

生け垣に隠された長い通路の先にある扉の向こうに179人の命が託されてきた。親が育てられない子供を匿名でも預かる「こうのとりのゆりかご」。2007年、熊本市の慈恵病院で運用開始。国内初の試みは全国的な議論を呼んだ。ゆりかごの運用開始から18年、「孤立出産」の末に訪れるケースが多いという。宮津航一さんも預けられた子供の1人。4年前、宮津家で自分の生い立ちについて調べてきたことを打ち明けていた。航一さんは運用開始初日に預け入れられた。当時3歳、想定されていた赤ちゃんではなかった。迎え入れられた宮津家は親と暮らせない子供を里親として育てるファミリーホーム。一緒に暮らす様々な事情を抱える子供たち。かつての自分がここにいる。境遇を知っていた美光さん・みどりさんは幼い航一さんをいっぱい抱きしめた。高校2年生の冬に養子縁組が成立し、法律上も親子に。美光さん達は航一さんの生い立ちについて分かることは隠さず話してきた。小学生の時、宮津家に母親の情報が寄せられた。実父は分からなかったが、実母は交通事故で亡くなっていた。航一さんを引き取った親戚がゆりかごに預けたそう。美光さんは航一さんを生まれ故郷へ連れて行った。常に航一さんの自分探しに寄り添ってきた。中学校から打ち込んできた陸上競技。この日は熊本県高校総体。最後の夏、100mに出場する。目標としていた自己記録を更新。悔いのない夏になった。ただ、この時は周りに全てを打ち明けることができない自分もいて揺れていた。

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航一さんは、受験勉強の合間をぬって、やりたいことができた。こども食堂だ。育児放棄で子供が餓死したというニュースがきっかけ。たすけたいという気持ちが芽生えたという。料理はやったことがないとのこと。食堂でふるまうカレーを作った。小学生のときの宿題を見せてくれた。「ぼくのせいちょうきろく」。赤ちゃんの頃の写真はなかったので、かわりに兄の写真を貼った。エピソードは想像だった。航一と名付けたのは当時の熊本市長。広い海をわたる船のように力強く生きていくように名付けられたと美光さんは考えた。子供食堂初日。子供とつながり相談相手になりたいと航一さんは思っている。経済的な理由で三食がおろそかになっている子供もいた。田尻由貴子さんは、慈恵病院の元看護部長。こうのとりのゆりかご開設に携わった。

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三年前に大切な出会いがあった。航一さんは、宮津家に来る前の自分を探し求めていた。慈恵病院で赤ちゃんポストを見た。ポストの扉は大きな役割を果たしているという。慈恵病院の蓮田健院長と面会した。記録にはゆりかごの上に座った状態できょとんとした様子だったとのこと。表情はおだやかで時折笑顔を見せていたとのこと。人見知りしない、話しかけるとよく答えるという。けれど言葉はまだ不明瞭。記憶にない自分の時間が写真の中にあった。卒業を機に実名でテレビに出ることを決めた航一さん。新たな出発にしたいと考えた。メッセージがたくさん寄せられた。応援のメッセージが多かった。大学入学の朝、ネクタイを結んだ。実母の十回忌に植えた桜が、花を咲かせた。子供たちのために何かするために大学でたくさん学びたいという。生い立ちを後悔していないという。すべての子供たちが幸せに不自由なく生活できる社会にしたいという。

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航一さんが4歳のときに宮津家で食べたケーキと同じもので20歳の誕生日を祝われた。人のためになにか自分の役割を果たしていきたい、子どもたちも一緒に楽しい日々を送りたいと話した。田尻さんと航一さんは「子ども大学」という児童が大学で専門家の講義を無料で受けられるようにする試みを行っている。田尻さんは慈恵病院では様々な事情を抱える母子の命と向き合っていて、24時間態勢でSOSの声に耳を傾けてきた当時のノートを手元に残している。命がつながっただけではなく幸せにならなければ意味がないと田尻さんは話す。専門学生時代に子どもが思いがけず生まれたという女性は自立していないのに育てられないと思いへその緒が付いたまま熊本へと赤ちゃんを預けた。預けて立ち去ろうとする女性に対して田尻さんが応対を行うと女性は仕事についたら引き取りたいと胸中を明かしているが、怒ることもなく丁寧に対応してくれた様子に世間の暖かさを感じられたという。女性は就職後無事に一緒に暮らせるようになったが、預けられたことは自分にとって最善だったと振り返り少しづつ過去についても明かしているという。田尻さんはゆりかごの子どもがみんな幸せになってほしい、ゆりかごに預けられたからあなたの今があると伝えたい、生んでくれたお母さんがあなたに愛情を持っていたからゆりかごに来たと話している。航一さんと田尻さんの講演が行われた。月2回のペースで行われる子ども食堂も4年目となっていて、多くの子どもが集まるとともに友人たちが支援に当たる様子も見られる。

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三月、親元を離れ、一人暮らしを始めた。両親と一緒にファミリーホームの運営に関わるようになり、親と暮らせない子どものことを考えながら毎日を過ごしている。ゆりかごの当事者として全国各地で行う講演は、年間四十件以上。三月には、東京の病院で、親が育てられない赤ちゃんを預け入れるいのちのバスケットの運用が始まった。宮津航一さんは、子どもたちが幸せな環境に身を置いて暮らすことができるか、ひとつひとつクリアにしていってほしいなどと話した。宮津美光さんは、病気をしてから航一くんの能力をあてにするにようになった、バトンタッチしていくような形に自然となったなどと話した。航一さんは、講演で、ゆりかごがあったから救えた命があるということ、子どもには生い立ちを伝えてほしいということを丁寧に伝えていた。航一さんは、生い立ちを公表したときに、ひとつの役割が終わりになると思っていたが、そこから三年間、想像以上に当事者活動をさせてもらっている、発信し続けなければ、ゆりかごに対する理解も薄まってくるなどと話した。講演を聴いてくれた人からのメッセージで、「麦の穂の中を切り開くように先頭を歩く者はその穂先で体や目がちくちくする、しかしそうやって踏みしめられた跡に続いて歩く人は楽に進める、後に続く者のためにこれからも切り開いていってもらいたい」という言葉をもらい、航一さんはこれからの生き方を考えたという。ゆりかごに預けられてから二十一年。航一さんは、就職ではなく、いまの活動を続けることにした。航一さんは、話しやすく、接しやすい、だけど頼りになるような関係性を築ける子どもたちが増えるといい、自分が困っているときに頭に浮かぶような存在になりたいなどと話した。

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