- 出演者
- -
今回は東京都文京区・本郷にある名建築の旅館・鳳明館を特集。
オープニング映像。
東京の本郷界隈は夏目漱石、森鴎外、樋口一葉ら錚々たる文豪や文化人が暮らした街。そのシンボルともいえば東京大学の赤門。本郷通りから路地に入って歩いていくと、今日の作品の鳳明館が。明治31年にたてられた木造に階建ての旅館。決して高級ではないが庶民に愛された国の登録有形文化財に指定されている。
鳳明館は130年間の歳月の中で磨き抜かれてきた木造建築が、独特の美意識をにじませている。玄関脇の帳場には黒電話。窓の上の欄間には鳳凰の透かし彫りが。ロビーの太い柱は、職人が無数の節くれを掘り上げた人造柱という凝ったもの。寄せ木の床を進むと土産物売り場が。古い記憶を呼び覚ますような赤い看板のレトロがある。
鳳明館の階段は龍宮風呂は、圧巻の全面タイル張りで海野中の龍宮城のように、タイやフグ、亀などが描かれる。その浴槽は何百人といる修学旅行生を捌くために立ったまま入浴できるように深く作られていると云われている。そしてゑびすの間という部屋は縁起の良い部屋で窓は小槌に象られ、天井は傘を模した飾り天井は全方位末広がりの意味。床の間の窓も末広がりに。ざくろの気を使った床柱も枝分かれして末広がりという徹底ぶり。
東京帝国大学を始め明治には多くの学校が誕生した。地方から多くのが学生が上京してきたが、彼らの住まいとなったのが下宿屋。本郷には最大で500軒の下宿屋が集まり、東京最大の下宿街に。その経営者にはある共通点があったが殆どが岐阜県出身者。その理由に専門家は本郷で一番最初に旅館を始めたのは菊富士ホテルの人で岐阜出身。その後、同郷の人を次々に呼んだという。鳳明館の創業者も、岐阜の出身で、明治31年に鳳明館は下宿屋として開業。その頃の名残が今も残っていて、2階の廊下から1階のロビーを見渡すと中庭だった場所があったが、団体客が多くロビーに。大正から昭和にかけて本郷の下宿屋は次々に旅館に変化していった。鳳明館が旅館専業になったのは昭和25年。47部屋を26部屋の旅館に改築して旅館業に変化した。
鳳明館にある不思議な竹の床柱は亀甲竹と呼ばれ、孟宗竹が突然変異で亀の甲羅のようになったもの。古くから銘竹として珍重さえてきた。朝日の間の欅の床柱は、そのうねり。アナの空き方など圧倒的存在感。下宿の鳳明館を買い取り旅館に改築した小池英夫は普請道楽だった。自ら木材を買い付けて大工の棟梁と相談しながら館内の設えやデザインを決めたと云われている鳳明館が大いに繁盛したのは戦後の復興期から。修学旅行の宿として日本全国から生徒たちが押し寄せた。
鳳明館は修学旅行生のおなじみの宿となり、大きな共同の洗面所はその頃に活躍した名残。当時は400名ほどの生徒を収容していたという。そのため二つの別館を作るほどだった。本郷にある大正11年創業の魚よしの3代目の長谷川さんは本郷について旅館に商品を収めていたという。ピーク時にはかつて120軒の旅館が軒を連ねていたが、その旅館を支えていたのは魚屋や和菓子屋などの近所の商店だった。現在はほとんどの旅館が廃業し最後の砦は鳳明館に。しかし、130年の歴史の中で最大の危機がコロナ禍の時代。女将は一時期は廃業と売却を決断したという。
鳳明館 森川別館は本館から歩いて5分の場所にある。修学旅行の生徒たちを迎えるために昭和30年に建てられた。森川別館も銘木や珍しい木材が惜しげもなく使用されている。カッパがモチーフで縁起物だという。2階にある客室は弥生の間で、桜の花をあしらっているその花盛りの景色を取り込むように、花見幕の彫刻が施される。
2020年に新型コロナウイルスが拡大。女将は緊急事態宣言後に修学旅行の予約がすべてキャンセルになったというが、廃業と売却を決断した。そこで立ち上がったのは栗生はるかさんと三文字昌也さん。文京建築会ユースという地域の魅力を建築的観点から再発見し、その価値を様々な角度から発信や活用を提案する若手有志団体。救いの手を差し伸べたのは地元の企業。2022年に鳳明館は廃業の危機を逃れた。そして旅館で襖の張替えをしていた学生たちが東大襖クラブ。東京大学の学生を主体とした襖と障子の張替えサークルで格安で請け負っている。
次回の「新美の巨人たち」の番組宣伝。
「スポーツ リアライブ~SPORTS Real&Live~」の番組宣伝。
