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- 池上彰 吉永小百合
テレビ東京初登場の俳優・吉永小百合。今夜は池上彰と昭和についてじっくり語り合う。
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池上彰は昭和25年、長野県・松本市生まれ。ニュースの現場を精力的に取材。これまでに訪れた国と地域は100を超える。テレビ東京の選挙特番ではその舌鋒の鋭さから「池上無双」と呼ばれた。吉永小百合は昭和20年、東京・渋谷区生まれ。小学生のころからラジオドラマで活躍し、昭和34年、14歳のときに映画デビュー。押しも押されもせぬ昭和を代表する俳優だ。社会活動にも積極的で、特に反戦・平和へのメッセージを発信し続けている。吉永は「映画界に入って2年目は16本出演した。あの頃の映画界は夢を作る工場といった感じで、どんどん作って皆さんに見ていただいていたという感じだった。今は一つ一つ丁寧には作っているが、すごく恵まれた環境で作っているチームもあればなかなかメジャーになれずお金を一生懸命集めてやっているようなところからビッグヒットが出たりしている。」などと話した。
昭和と女性の社会進出。昭和30年から60年代を60秒で解説する。高度経済成長の昭和30年、売春防止法交付。40年代は男は仕事、女は家庭の時代。最初の万博もこのころ。オイルショックでパニックになった。昭和50年は日本でも女性の地位向上への関心が高まる。昭和60年、日本人女性の寿命がはじめて80歳を超え、男女雇用均等法が公布。女性初の党首誕生は61年。池上たちは中山マサが池田内閣で初入閣。初の女性大臣などと歴史を振り返る。
昭和を生き日本、日本人に大きな影響をあたえてきた人たちをみる。女性として世界で初めてエベレスト登頂した田部井淳子さん、夫の政伸さんに話をきいた。日本の食の考え方を変えた香川綾さんについてなどと、本日のラインナップを紹介。さらに吉永小百合さんのココだけの話も満載。
吉永小百合と映画。スタジオでは吉永さんが出演した代表的な作品を紹介。昭和34年14歳で「朝を呼ぶ口笛」で映画初出演を果たし、その後日活の青春映画で黄金時代を築く。そして「天国の駅」などで日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を4度受賞。歴代最多を誇っている。出演作は124本。吉永さんは実在の人物を多く演じており、その1人が昭和62年の「映画女優」で演じた田中絹代。映画では大部屋女優からのし上がった波乱の人生を吉永小百合が演じた。吉永さんは、当時監督からオファーをうけたが大先輩のためお断りしたが、「新しい映画女優をつくろう」といわれ決意したなどとトーク。平成20年の映画「母べえ」では名匠・黒澤明監督の右腕として作品を支えた伝説のスクリプター・野上照代さんの自伝的作品にも出演。戦時下を舞台に家族の絆と母の人生を描いた作品となっている。最新作の映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」は、田部井淳子さんを描いた作品となっており、吉永さんは以前共演時に意気投合しいつか田部井さんを演じられたらとひそかに思っていたため嬉しかったとコメント。登山家・田部井淳子さんは女性として世界初・エベレスト登頂を成功。そのプロフィールを紹介。田部井淳子さんは昭和14年に生まれ、平成28年77歳で生涯を閉じられ、生涯76の国・地域の最高峰・最高地点を登頂した。
田部井淳子さんは、昭和14年に福島・三春町に生まれた。三春町にある「田部井淳子記念館」には、田部井さんがエベレスト登山時に使用したピッケルなどが展示されている。昭和50年、田部井さんは35歳で、女性で世界初となる8848mのエベレスト登頂に成功した。また、7大陸の最高峰の登頂にも成功している。亡くなるまでに登頂した最高峰・最高地点は、76の国・地域に及ぶという。田部井さんは大学時代から女性のみの登頂を目指しており、「女子登攀クラブ」を結成して活動をしていた。また、登山家として華々しい経歴を持つ母親へのコンプレックスで、息子が反発し、勝手に高校を辞めたことがあったという。しかし、親子の距離を縮めたのも登山だった。
吉永小百合と登山。吉永さんは「20代の頃に山ガールだった。北アルプスとか八ヶ岳とか八幡平とかいろいろな山を登って、山って楽しいと思っていたが、登りがきつくて下りになるとぴょんぴょん跳ねて降りていたので嫌われたのとスキーの方が良いかもとスキーに転向してしまった。富士山の大きさに感動した」などと述べた。田部井淳子さんにばかり焦点があたり、まわりから反発を受けることもあった。吉永さんは「田部井さんもつらかったと思う。山ってこの時しかないという場合がある。そういう時にみんなで登って遭難することもあるし、その決断は今しかないということで登った。他に登れなかった人はお金を集めて行ったので悔しいこともあると思うがみんなで登ったと思う」などと述べた。
平成28年夏、富士山7合目が最後の登山となった。他界する3か月前まで山に登っていた。田部井進也さんは「一緒に生活する時間がなかった。もし一緒に過ごす時間が短くなったら後悔するかもしれないと感じて、病院に行ったら先生に呼ばれ1日単位で命を考えてくれと言われて、しっかり話をしたいと思って話をして、最後にお母さん大好きだよと話したらお母さんも大好きと言ってくれて山よりも好きと言った。山と比較するんだと思って。でも母らしいと思った」などと述べた。亡くなる5日前に残した言葉「みなさん本当にありがとう!!ありがとう!!百万遍もありがとう!!田部井淳子」。
池上さんは「ご主人も素晴らしいし、息子さんも本当に正直で」などと述べた。吉永さんは「今はお母さんにかわって東北の高校生たちを富士山に連れていくというプロジェクトをやってらしゃる」などと述べた。吉永さんは映画にはいる前に自宅に行き話を聞いたという。撮影シーンで山に登るときは必ず息子さんがついてきてくれたという。埼玉・日高市にある日和田山で撮影した時に景色をながめていると息子さんが「お母さんがいるみたいだ」と言ってくれたという。亡くなる3か月前に富士山の7合目の写真。映画の中でも吉永さんが高校生を連れていくシーンは7合目よりちょっと上まで行ったという。吉永さんは今は水泳オタク。吉永さんは「水泳が身軽にできることで、その前はスキーに没頭していた。運動することが大好き」などと述べた。田部井さんの言葉で印象に残っていることについて吉永さんは「一歩ずつ一歩ずつ前へ。困難な状況でも少しでも前に進むことが大事。それと息子さんがおっしゃっていたけど判断が素晴らしいと。高校生登山に行って大雨が降ったときに引き返そうと一言言った、全員でもうちょっと待ちたかったけど帰った。それはどうにもならない天候だと判断されたと思う」などと述べた。
田部井さんがエベレスト登頂に成功した昭和50年は男女平等を求める動きが活発になった年。国連が国際婦人年と定め、あらゆる分野の女性差別撤廃に取り組むことを宣言した。それより以前は女性たちの働ける場所は限られていた。就職しても結婚したら退職するのが一般的、企業側も嫁入り前まで一人の娘さんを預かる感覚だったと言われている。そんな時代だったからこそ田部井さんのエベレスト登頂は世の女性たちに勇気を与えた。
女性たちの社会進出の歴史を深堀りする。戦争中、男たちはみな戦場に行っていたため、社会を支えていたのは女性たち。しかし戦争が終わると男たちは日本に戻り、女性たちの仕事がなくなった。そんな中で女性たちが職業安定所で仕事を斡旋してもらうべく訪れていた。昭和22年に労働基準法が施行され、女性労働者の保護規定が設けられ、女性の社会進出・地位向上のきっかけとなった。この頃の女性の仕事として代表的なものは電話交換士やバスの車掌など。昭和30~40年頃にはバスの車掌は8万人ほどいたという。吉永さんは「当時は『東京のバスガール』という歌も流行っていましたね」とコメントし、「東京のバスガール」が流れた。昭和32年には主婦連合会が「お米の値上げ絶対反対!」と農林省(現:農林水産省)へ陳情に向かった。吉永さんは「初めて映画出演を言われたときはどう思った?」と聞かれると、「私の家がたいへん貧しかったんです。借金取りが来て父がつらい思いをしていたので、父のために何かやりたいと思っていたので、中学卒業してすぐに『日活』という映画会社に入ったんですが、その時に給料が1万円で、1本出演すると2万円だったんです。それは決して低い値段ではなかった。大変ありがたかったが、大変な重労働で夜寝る間もない撮影が1~2年は続きました。あの頃は同級生でも大変な思いをしている方がたくさんいたので、学校に行って給食費が払えなくて『忘れてきたって言いなさい』って母に言われたことがある。まさに『キューポラのある街』という映画の時に浦山桐郎監督に『貧乏について考えなさい』と言われた。私はそのときに『貧乏についてはよく知っています』と言ったんです。でも『君の貧乏は山の手の貧乏だろう?キューポラのある街の貧乏は下町の貧乏。違うんだ』と言われたんです」などと話した。昭和37年に公開された「キューポラのある街」。埼玉県川口市の鋳物職人の家庭に育つ吉永さん演じる・ジュンは貧しいながらも様々な困難に立ち向かう成長物語。「キューポラ」とは溶鉱炉のことを指す。
映画「キューポラのある街」の舞台は埼玉県川口市。日本のものづくりの基礎となった鋳物の街。吉永さんは鋳物工場で働く一家の長女・ジュンを演じた。映画公開から63年、思い出の地はどうなっているのか。
不朽の名作キューポラのある街の公開から63年、舞台となった埼玉・川口の今を取材。撮影当時600以上あった工場は令和7年63工場にまで減少。現在も鋳物工場を続ける富和鋳造を訪ねた。当時はキューポラで石炭を加工したものを燃やして鉄を溶かしていたが、公害の問題でいまは電気炉を使用。川口は東京のベッドタウンとしてマンションの建設ラッシュとなり、高度経済成長を支えたものづくりは時代の波にのまれたのだという。川口駅は見違えるほど発展。一方で変わらない部分も。川口名物太郎焼きや主人公ジュンがソフトボールをしたグラウンドだ。中学校は台風の影響で高台へと移ったものの変わらずグラウンド側にあった。
昭和34年に始まった、在日朝鮮人やその家族と北朝鮮へ集団で移住させる取り組み「在日朝鮮人帰還事業」について、当時のニュースは「帰還列車に載ったら最後、面会・外出一切ご法度という帰還案内書を見て大憤慨した」と報じていた。韓国側は「同胞を北へ戻すな」と猛反対し、実態は政治的な背景が絡んでいるという。この事業では、約9万人が北朝鮮に永住帰国したという。
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池上さんは「北朝鮮は地上の楽園だと言われていました。『いつでも日本に里帰りできるから』と。けど、それっきりになりました」などと話した。
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映画「キューポラのある街」には、昭和30年代の様々な世相が描かれている。当時、伝書鳩が大ブームとなり、東京五輪開会式では8000羽の鳩が放たれた。また、昭和33年、日清食品は、世界初の即席麺 として「チキンラーメン」を発売した。他にも、当時はパチンコが流行した。
パチンコ人気は社会問題になるほどで、「パチンコ離婚」という言葉も登場した。
池上さんは「当時は今のようにスマホがなかったから、伝書鳩を使っていたんですね。新聞社が、本社にフィルムを届けるときにも使っていたんですよ。チキンラーメンは、商品化に10年かかったそうです」、吉永さんは「私はケーキが好きで、映画の撮影のときに12個食べたことがあります」などと話した。
吉永さんの出演映画として、昭和37年公開の「上を向いて歩こう」や昭和38年の「いつでも夢を」などを紹介。池上さんは「『いつでも夢を』は、中学時代、ラジオでいつも聴いていましたよ。いつでも夢を持ちたいと発展する昭和でしたよね」、吉永さんは「私にとって映画に出ることが青春だったのかもしれません」などと話した。