2025年9月28日放送 18:30 - 20:50 テレビ東京

池上彰×吉永小百合 昭和100年

出演者
池上彰 吉永小百合 
(池上彰×吉永小百合 昭和100年)
昭和45年 日本が沸いた大阪万博 吉永小百合との関わり

吉永小百合さんが歌う「世界の国からこんにちは」を紹介。昭和45年の大阪万博のテーマ曲だった。吉永さんは「坂本九さんと私は大阪万博の委員でした」などと話した。

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昭和45年 日本が沸いた大阪万博 吉永小百合との関わり/国民的人気者 サザエさん 当時の大阪万博をチクリ/昭和45年 大阪万博 日本の外食が変わった

昭和45年の大阪万博について吉永さんは「坂本九さんと私が委員に選ばれて何をやればいいかも分からずにOKしてしまったが、実際に会議の時に一言言ってしまったのは広島・長崎の原爆のこともきちっと展示して世界の人に知ってもらいたいということ。ただ全く取り上げられずにがっかりしてどんな国のいろいろ大変なことがあっても引き受けるのはやめようと思った。力が無かったんだと思うが、そういう場所で言うことでは無かったのかもしれない。どんなことでも思いを伝えていくのが万博のひとつのテーマかも知れないと思う。そこで挫折して万博には行かなかった。忙しかったということもあるかもしれないが、行く気持ちにはならなかった。」などと語った。

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昭和45年 大阪万博 日本の外食が変わった

55年前の昭和45年に開催された「大阪万博」。特に注目を集めたのは当時の最先端技術。現在の携帯電話の原型とも言えるワイヤレス電話もこの万博で披露された。そして実は大阪万博は食の祭典でもあった。現在朝食などで広く食べられているブルガリア生まれのヨーグルトや、世界さん大珍味の1つ・キャビア、メキシコの主食であるトルティーヤ、鍋で煮た熱々のチーズを絡めて食べるスイスの家庭料理・チーズフォンデュなど、大阪万博がきっかけで日本に紹介された。そして300軒近いレストランがある中、売り上げ1位だったのが後のロイヤルホストとなる「ロイヤル」。ロイヤルの創業者・江頭匡一さんの長女・眞理さんは当時万博会場にいたという。「ロイヤル」はアメリカ大使館の要請でアメリカエリアのレストラン・ステーキハウス・ケンタッキーフライドチキンなどを運営した。いまもロイヤルホストの売りの1つ「厚切りステーキ」。実は万博のときの人気メニューだった。今は約7,000~8,750円ほどだが、当時は2,000円~2,500円で出していたという。なぜロイヤルが任されたのか。実はもともと出店予定だったアメリカのレストランチェーンが「人件費・食材費などを考えると採算が合わない」と撤退したため。そんな中、ロイヤルは日本に殆どなかった方法で勝負に出た。それは複数の店で出す料理を1か所でまとめて調理する「セントラルキッチン方式」。今では当たり前のことだが、当時はそれぞれの店舗で調理・下ごしらえをしていた。出来上がったものを各店舗に配送すればコストも下げられ、人手も減らせる。ロイヤルは福岡のキッチンで調理されたソース・スープなどを約600キロ離れた大阪の会場まで毎日4台のトラックで輸送。1日スター木2,000枚、ハンバーグ2,000個出る厨房を支えたという。現在のロイヤルのセントラルキッチンは千葉県船橋市にあるが、1日約20トン・10万食を作り上げる。手間がかかるソースなどは大量に調理することで品質を下げずコストを抑えている。かつて高嶺の花だった外食が身近になった背景には昭和の時代に果敢に挑戦した人がいた。日本に外食が広がったきっかけは大阪万博ともう1つは車社会の到来。昭和35年には「家つき カーつき ババア抜きが結婚相手の最適条件」という言葉も。生活に欠かせないものとなった車が外食のカタチを変えることとなった。車に乗って家族で郊外のレストランにご飯を食べに行く=ファミリーレストラン。「車でファミレスへ」こうして外食は気軽な食事となった。

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日本に外食が広まった理由 大阪万博と車社会の到来

万博を機に日本の外食は大きく変わった。ロイヤルホスト、すかいらーく、ケンタッキーフライドチキンなどが銀座に出店した。マクドナルドの第1号店は昭和46年7月、銀座三越の1階にオープした。1号店はテイクアウト専門だった。昔は歩きながら食べちゃいけないという時代があったが、この頃は食べながら歩くのがおしゃれに変わってきた、などと伝えた。

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日本人の食に対する考え方を大きく変えた女性 香川綾

女子栄養大学創設者の香川綾さんを紹介。香川さんは、計量スプーンを開発し、現代では常識となっている料理の計量化、食と健康を説いた先駆者だった。また、食品を栄養の特徴別に4つのグループに分け、1日にどれくらい食べたら良いかを表す「四群点数法」も考案したという。香川さんは14歳のときに母親を急性肺炎で亡くしたことをきっかけに、医師を目指した。しかし、父は猛反対し、師範学校に通って教師になるよう命じた。反発した香川さんは師範学校の入学試験を白紙で提出したが、それまでの成績や直前の母の死などが考慮され合格となり、師範学校を卒業後教師となった。しかし、男子・女子で給料に差があるなど不満が募り、医師になる夢を諦めることができなかった。そして、東京女子医学専門学校(後の東京女子医科大学)に入学し、創立者の吉岡彌生さんの言葉に感銘を受け、医師免許を取得した。そして、東京帝国大学の内科学教室に入局したが、女性に対する誹謗中傷が激しく、共に入局した女性は全員辞めてしまったという。そんな中、香川さんは、教授から「飯の炊き方」をテーマに研究することを命じられる。

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吉永小百合 124本目の作品 てっぺんの向こうにあなたがいる

映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」の告知。10月31日、全国公開。

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吉永さんは映画について「公開は10月31日」と話した。

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栄養学の礎を築いた香川綾 研究テーマは飯の炊き方

信頼していた教授からの最初の研究テーマは「飯の炊き方」だった。反発した綾に対し教授は「医者の本分は人間を健康にすることと病気にしないこと。臨床医は患者が病気になってから治療するが、本来病気にならないようにするのが医者の使命なんだよ。」などと諭した。綾はこの言葉に大きな感銘を受ける。そしてごはんの炊き方を徹底的に研究。水の量、洗う時の水の温度、米を浸す時間、火加減、フタの重さと機密性。考えられる全てを記録し実験を繰り返した。2カ月かけて飯の炊き方を論文にまとめた。そこに書かれていたのは「米をごはんにすると重さは2.3倍になり容積は2.5倍に増える。」。綾は米の栄養価にも注目した。これが当時流行していた病気の治療に大きく役立つことになる。その病気が「脚気」。脚気は中枢神経などが侵され手足がしびれるなどのほか、重症化すれば心不全を起こし死に至ることもあった。脚気が猛威を振るっていたある時、綾は胚芽米にビタミンB1が多く含まれていることに気がつき、胚芽米を病院食に取り入れるように進言した。当時は人間実験も行われたとのこと。薬ではなく食事で病気を治すことが出来ると栄養学と食の重要性を感じ、栄養学に人生を捧げることになっていく。

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「食べて学ぶ」がモットーの学食の料理は全て管理栄養士が緻密な計算をして作る。この日のメインのおかずは鶏の唐揚げ、小鉢2つと胚芽米。全て合わせても780Kcal・510円。昭和の時代、日本人の健康を食で支えることに気付き広めたのが香川綾さんだった。

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初めての海外はイタリア・ミラノ 超豪華メンバーとの長旅/昭和38年 フランス・パリへ 本場のフランス料理の味は?/自由に海外に行けなかった時代 持ち出していいのは500ドル/一番印象に残った海外旅行はアウシュビッツ ウィーンでオペラ

吉永小百合さんの初めての海外旅行は昭和37年に訪れたイタリア・ミラノだった。ミラノ国際映画見本市へ向かう映画配給会社の方々から女優に声がかかり、吉永さんは日活と同行した。当時はまだ長距離飛行が難しく、香港で1泊し、イランを通ってローマへ。更に列車でミラノへと向かう長旅は3日間を要したという。また昭和38年7月7日号の毎日グラフでは、パリの凱旋門を背景に表紙を飾った。特派記者としてパリに1週間滞在し、当時10代だった吉永さんは慣れない本場フランス料理をかみしめていただいたと語った。池上さんによると当時は自由に海外に行けなかった時代。日本で海外渡航が自由化されたのは昭和39年4月。ただし外貨持ち出し制限があり、500ドルまでと定められていた。続けて吉永さんは、一番印象に残っている旅先について7年ほど前に訪れたアウシュビッツと、ウィーンのオペラだと話す。池上さんは現代世界の光と影の旅のようだとコメントした。

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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所アフロウィーン(オーストリア)ウクライナエトワール凱旋門カンヌ国際映画祭カンヌ(フランス)キューポラのある街スカラ座セーヌ川ソ連テヘラン(イラン)パスタパリ(フランス)ポーランドマキシムマルベル堂ミラノ(イタリア)リドロシアロンドン(イギリス)ローマ(イタリア)中谷吉隆佐久間良子吉永小百合大映岸恵子日活星由里子朝日新聞社東宝東映松竹毎日グラフ毎日新聞社講談社香港
ユダヤ人大虐殺の象徴的な場所 アウシュビッツ強制収容所

アウシュビッツ強制収容所は第二次世界大戦時ナチス・ドイツが設置した収容所。ユダヤ人大虐殺の象徴的な場所。

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吉永小百合×海外旅行 戦争と平和を感じる旅/終戦の年に生まれた 戦後80年 戦争に対する深い思い/吉永小百合 フィルモグラフィー 愛と死の記録/吉永小百合 フィルモグラフィー 北の桜守/80年前 ソ連が一方的に攻めてきた 日本各地で起こった様々な悲劇/あゝ ひめゆりの塔 撮影秘話 過酷なロケ 頬にやけど

吉永さんはベトナム戦争があった地を巡っており「見て歩くことで自分が知らなかった場所や知らなかったことを知るために博物館や記念館はきちっと行くようにしている。(今年は戦後80年だが)戦後100年になるといいですね」などと話した。池上さんは「吉永さんは東京大空襲の直後にお生まれになったんですよね」と言うと吉永さんは「直後といいますが、私の方の地区は渋谷区なんですが、5月の頃の空襲が一番大きくてダメージを受けたと母に聞いた。防空壕はあって、1~2歳の頃は防空壕の中でおままごとをして遊んだ」などと話した。吉永さんは戦争をテーマにした作品にも多く出演している。「自分から出演したいって言ったことはないが、例えば『愛と死の記録』は4歳のときに原爆を受けて20歳で亡くなった青年と、その青年の恋人で1週間後に後追い自殺をした女性の話」と話した。この作品は渡哲也さんとの初共演が話題となった。平成30年に公開された「北の桜守」。物語は昭和20年の南樺太(現在のサハリン)から始まる。戦後の混乱と貧困の中、吉永さん演じるてつは息子を懸命に育て上げるが、やがて記憶障害を発症。戦争により引き裂かれた家族の再生の物語。80年前の昭和20年8月9日、ソ連は日本との中立条約を一方的に破棄し、南樺太・朝鮮半島・千島列島に侵攻した。その際に軍人・民間人約57万5,000人がシベリアなどに矯正抑留され、多くの人が犠牲となった。また、家族や仕事の理由などで日本に帰れなかった人も多くいた。昭和20年8月22日、南樺太からの引き揚げ船が留萌沖でソ連軍の潜水艦に襲撃された。その船は今も留萌沖に沈んだまま。今年8月、水中ドローンが沈んだ船の撮影に成功した。魚雷が当たったとみられる穴も空いている。この襲撃で死者・行方不明者は1,700人以上に及んだ。吉永さんは「大変な思いをなさった方たちがたくさんいた。私たちが知らないところで苦労して生きてこられた方たちの話は、大事に伺って自分たちの棟の中に持っていなきゃいけないと思う」とコメントした。「あゝひめゆりの塔」は昭和43年公開の沖縄戦・ひめゆり部隊を描いた作品。吉永さんは「まだ沖縄が返還されていなかったので、伊豆半島でロケをしたんです。大変なロケで私もヤケドをした。映画を撮り終わって封切りになった時にパスポートを取ってひめゆりの塔にお墓参りに行ったんです」などと話した。

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あゝひめゆりの塔ひめゆりの塔やけどアフロサハリンシベリアハノイ(ベトナム)ベトナム戦争ホーチミン市(ベトナム)伊豆半島北の桜守北海道千島列島原爆症愛と死の記録朝鮮半島東京大空襲沖縄県渋谷区(東京)渡哲也滝田洋二郎留萌市教育委員会留萌(北海道)白鳥建設工業蔵原惟繕
配信情報

「池上彰×吉永小百合 昭和100年」はテレ東BIZ・TVer・U-NEXTで配信。

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TVerU-NEXTテレ東BIZ
あゝ ひめゆりの塔 撮影秘話 過酷なロケ 頬にやけど

池上さんは「捕虜になる前に自害しろと言われて手榴弾を渡されていて、手榴弾で自害をするというシーンの時に…」と言うと吉永さんは「興奮しちゃって間違えて押してはいけない時にやってしまって、頬にヤケドをしたんです」と話す。

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あゝひめゆりの塔やけど
あゝ ひめゆりの塔 撮影秘話 頬にやけどを負った迫真の演技

昭和43年に公開された「あゝひめゆりの塔」。昭和20年、沖縄戦が激化する中、吉永さん演じる和子はひめゆり部隊として負傷兵の介護に尽くす。命が次々失われる中、待っていたのは過酷な運命。吉永さんがヤケドをしたというシーンが流れた。

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あゝひめゆりの塔やけど沖縄県石森史郎舛田利雄若井基成
戦後80年 今の世界は?戦争を起こさないために/昭和から未来につながるキーワード/吉永小百合のキーワード 故きを温ねて新しきを知る

戦争から80年。今の世界について吉永さんは「すごく心配している。色んなところで辛い思いをしている人もいっぱいいるし、なんとか世界のみんなの力で惨状を回復しなければいけないと思っている。でもなかなかすべがなくて、飢餓でどんどん亡くなっていく子どもたちとか、ウクライナの方たちもどんなに辛い思いをしてらっしゃるかと思うと…どうして良いか。みんなで答えを見つけなきゃいけない。そのためにはどんなことが戦争の時に起こって、どういうことがあったのかというのを繰り返し知って、次の世代・未来に生かしていくことが大事だと思う」「私の父は戦争の時に船に乗って向かっていったんだけど、ちょうど病気になって帰されたんです。もし戦地に行っていたら自分は生まれていなかったということもある。それがとても重いことで、しっかり受け止めないといけないなっていう気がしている」などと話した。この番組は「昭和から未来につながるキーワードを見つける」という試みをしているが、吉永さんが思う“未来につながるキーワード”について聞くと「『故きを温ねて新しきを知る』ということだと思う。“故き”は戦争のことや、日本の中でいろいろあったことをみんなが知って、それをしっかり自分の中に入れて次の世代に引き渡していくこと。どんなことでも声を出してお互いに話し合っていくことが大事。自分たちの思いを語り合うことが少なくなっている。みんなスマホばかりを見て下ばかり見ているのではなく、お互い同士が話すことが大事だと思う」などと話した。

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ウクライナウクライナ陸軍田部井淳子
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