- 出演者
- 池上彰 宇賀なつみ 内藤剛志 三田寛子 遠藤章造 ビビる大木 本田望結 浮所飛貴(ACEes) 那須雄登(ACEes)
100年前、最も人気だった部活動はテニス。全国の7割以上の中学校にテニス部が設置されていた。人気だった理由は男女を問わないスポーツだったことや佐藤次郎選手の活躍などがある。日本初の修学旅行は明治19年、東京師範学校が行った長途遠足。東京~千葉・銚子間を徒歩で往復し史跡の見学などを行った。
戦時中は外国語の使用が禁止になった。敵性語の例はサッカー→蹴球、ラグビー→闘球、クロール→速泳、カレーライス→辛味入汁掛飯など。教科書も敵性語が変更され、ピアノ→洋琴、コスモス→秋桜など。
終戦で教育制度は大きく変化した。GHQ担当者の州をモデルに6・3・3制になった。他にもアメリカをモデルに男女共学やPTAなどの制度が生まれた。
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- アメリカ連合国軍最高司令官総司令部
戦後、アメリカからは漢字を廃止してローマ字にするよう要求される。日本は当面の間使用する漢字として1946年、1850字の当用漢字を選出。現在は常用漢字に変更になっている。そして時代は高度経済成長期へ。経済が豊かになるのと同時に大学進学率も上昇。しかし詰め込み教育でついていけない生徒の非行などが社会問題となった。詰め込み教育は次第に見直され個性を重視したゆとり教育が始まる。現在の教育方針は自ら考え自ら生き抜く力を身に付けていく。
100年以上続く老舗の会社は4万5284社。今年はさらに2000社ほど増える。日本は世界一老舗の企業が多い国で、1000年以上続く会社も11社ある。一番古い会社は578年創業「金剛組」。日本に老舗が多い理由は家業を守る意識が強いことが一因と言われている。大正13年の子どもの将来の夢は男児1位は軍人、女児1位は偉人。
100年前、多くの日本人が就いていた仕事は農業、漁業などの第一次産業。高度経済成長期に第二次産業や第三次産業が大きく伸びていく。紡績工場勤務の約80%は女性だった。
100年前は男女ともに過酷な労働を強いられていた時代で労働時間は今の約1.5倍で決まった休みもなかった。昭和22年、労働基準法が制定され労働環境が改善された。高度経済成長期は人手不足が深刻になり集団就職や終身雇用が積極的に行われた。日本の主な産業は戦前は生糸、戦後は綿製品、高度経済成長期は鉄鋼、昭和末期は家電・自動車など。
高度経済成長期、繊維産業が国の方針で大きく変わった。繊維産業と引き換えに沖縄返還を実現し新聞が「糸と縄の取引」と報じた。高度経済成長期以前のMade In Japanは粗悪品の代名詞だった。第一次世界大戦後、物資不足で粗悪品でも売れた。高度経済成長時代にアメリカの生産管理などを学び品質の良いものが作れるようになった。
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- リチャード・ニクソン佐藤栄作沖縄県
高度経済成長期は生活のほとんどが仕事だった時代。また女性差別も当たり前の時代だった。女性社員は男性社員の結婚相手候補として採用するケースもあった。昭和61年、男女雇用機会均等が施行。しかし女性の社会進出が増えてセクハラの問題が表面化する。1990年代、完全週休2日制が多くの会社に普及。働き方が今のようになったのはごく最近のこと。
108歳の現役理容師の箱石さんに一番よかった時代を聞くと、昭和の時代がよかったと話した。
昭和初期は植民地が多かったため国の数は68カ国。100年以上前、日本と関係が深かった国はイギリス。ロシアの脅威に対抗するため日英同盟が結ばれていた。日本は議院内閣制や鉄道、社会保障制度、天気予報のしくみなどをイギリスをお手本のしている。
昭和39年、日本はOECDに加盟し先進国の仲間入り。日本は経済発展とともに世界の先進国との関係を深めていったが戦後から変わらなかったのが日米関係。アメリカの圧力で変わったものは給食にパンを導入、大型店の増加など。元々日本では商店街を守るため大型店の出店などを制限していた。
30年ほど前まで韓国は日本からの文化流入を規制していた。40年ほど前に民主化し、文化的な交流が盛んになったのはここ30年ほどのこと。しかし慰安婦問題や徴用工問題などのモメごとも増えている。
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- ソウル(韓国)
昭和30年代、北朝鮮は地上の楽園と呼ばれていた。帰還事業で北朝鮮は地上の楽園だと大宣伝が行われ、在日コリアン・日本人妻など約9万30000人が帰国。当時は日本政府やマスコミも積極的に帰国を後押ししていた。
昭和47年、日本に初めてやって来たパンダ。日中国交正常化をきっかけに日中友好のシンボルだった。中国は30年ほどで劇的に発展。モメるようになった原因は中国が経済発展し大国になったことや中国共産党の維持のために反日を利用しているため。
昭和の政治家について紹介。国会議事堂は大正9年に着工し昭和11年に完成。中央広間には伊藤博文ら議会政治の基礎づくりに貢献した3人の銅像が設置されているが台座の一つが空席となっている。これは4人目を選べず将来に持ち越されたや政治に完成はない未完の象徴という説がある。かつての総理大臣の決め方は今と異なり元老が候補者を決め天皇に推薦していた。国会で指名し任命するのは昭和22年からである。自由民主党は自由党と日本民主党が憲法を変えるため昭和30年に結成。
昭和3年に最初の普通選挙が実施されたが選挙権は満25歳以上の男子のみに与えられていた。しかし、選挙ブローカーなどの存在が買収し投票を誘導していて、その買収を防ぐため夜通し見張ることもある。
昭和21年の衆議院選挙から女性が投票・立候補ができるようになり39人の女性議員が誕生した。しかし当時は女性は家庭を守るものなどの考えが広まっていた。
昭和の政治家の1人三木武吉は選挙中に愛人が4人いるなど言われるが事実は5人ですや責任を取って養っているなど話しトップで当選したという。
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昭和47年に佐藤栄作総理が辞任会見では長期政権のためマスコミから批判も多く怒りを爆発させたと言われる。浜田幸一議員は総理退陣を求め立てこもったこともある。お金の問題について田中角栄の場合はお金にまつわる逸話として候補者にお金を当たり前に渡していたとされる。平成8年から小選挙区制度が導入された。