- 出演者
- 池上彰 宇賀なつみ 内藤剛志 三田寛子 遠藤章造 ビビる大木 本田望結 浮所飛貴(ACEes) 那須雄登(ACEes)
オープニング映像。
100年前の日本の人口や平均寿命は今の半分ほど。乳児死亡率は今の80倍ほど高かった。人口が1億人を突破したのは昭和42年。太平洋戦争は昭和20年に終戦し犠牲者は約310万人。その後昭和22~24年の3年間で800万人以上増加。これが第一次ベビーブームと言われ後に団塊の世代と呼ばれるようになった。軍事力強化と労働力確保を目的とした産児奨励政策が行われたが、昭和49年には人口増加が社会問題と指摘された。昭和50年代から子どもが減り始め2008年には人口も減少。高齢者の増加で今も問題になっているのが「8050問題」。80代の親の年金などで50代の引きこもりの子どもが生活すること。
大正14年の銀座通りの洋装率は女性は1%、男性は軍服の影響で67%だった。地方では男女ともにほとんどが和装だった。女性の定番服だったものはもんぺ。一方都市部ではモダンガールが登場。洋服を着ていたのはある程度裕福な若い女性。女性の洋服が広まったきっかけは洋裁を教える学校。昭和初期、西洋化が進む都市部の若者の間の流行語は「シャン」。粋で洗練されている、オシャレであるという意味。
100年前の一般的な家は木造平屋住宅。当時の全国の持ち家率は約40%だった。住宅ローンはなく購入は現金一括だったため借家が多かった。今は家賃は収入の3割以内が目安と言われるが昭和元年の家賃負担率は収入の1.5割ほど。当時地方で多くあったのは五右衛門風呂。沸かすのが大変なため利用は週1~2回。一方都市部では週に数回銭湯に行くのが一般的だった。昭和12年には約2900軒の銭湯が営業していた。当時は髪を毎日洗う習慣はなかった。
栃木・那珂川町に住む108歳の現役理容師・箱石さんの元を訪ねた。108歳も今でも全ての工程をひとりで担当している。昭和初期に一番苦労したのは水で髪はあまり洗わない時代だったという。ジェニー牛山さんによると髪のお手入れは細い目のくしで髪をすいていたという。月1回の洗髪で大丈夫だったのは食生活が関係していた。昔は油やお肉をとっていないためあまり痒くならなかったという。
団地はダイニングキッチンが標準装備されていて生活の洋風化が進んだきっかけ。100年前の一般的な食事は地方は保存がきく食材が重宝された。一方都市部ではコロッケ・とんかつ・カレーライスが食卓に出るようになりさらに外食も広まった。昭和初期には関東大震災がきっかけでラーメンが全国に浸透。
昭和初期、西洋レストランが増加。大正13年創業「洋食 入舟」で当時人気だったメニューはカツレツやクリームコロッケ。戦後で食材が集まらない時代に営業を続けるのは大変だった時期もあったという。昭和初期は基本的な食材は自給自足。商店ではそれぞれの食材を専門店で購入。その他、青空市場や行商人から買っていた。都市部の中流家庭の多くは御用聞きを利用して買い物していた。
昭和初期、主婦が最も時間をかけた家事は裁縫。服は自分で作る・直すが当たり前だった。
100年前、都市部ではある程度の医療体制が整っていたが医療費はほぼ自腹の時代。地方では医者がいるのは限られた地域のみで富山の置き薬が重宝された。
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100年前の娯楽は大衆演芸、映画。昭和初期はセリフなどの音声や音響がない無声映画で映画館にはセリフやナレーションを生で担当する活動弁士がいた。またBGMは生演奏だった。
「新宿 武蔵野館」は大正9年に開館。映画ブームの波に乗り連日超満員だった。戦争で屋根が崩壊しても上映を続けたという。戦後、恋愛が自由になり映画はデートの定番になった。当時2人がけ横並びのロマンスシートが流行。小田急電鉄・ロマンスカーは2人がけ座席になぞらえてロマンスカーと名付けられた。昭和初期は映画館は全国に1000館以上あった。
蒸気機関車が主流だった時代、昭和5年の全国の鉄道網の総距離は2万667km。日本が鉄道に力を入れた理由は戦争のための物資・兵員輸送に不可欠だったため。鉄道の整備は国家戦略だった。昭和初期、東京~大阪間の移動時間は約8時間20分。現在2037年の開業を目指しているリニア中央新幹線は東京~大阪間が1時間7分で結ばれる予定。飛行機の国内線は96年前に誕生。当時は富裕層や政治家が利用していた。タクシーは大正元年からあり昭和5年頃には都市部で市内1円均一料金の円タクが大ブームになった。しかし円タクは競争激化で赤字が続出し昭和8年に消滅した。
昭和30年代まで海外旅行は禁止だった時代。政府が海外渡航の目的を審査していて海外へ行けるのは仕事関係や留学生。海外旅行を制限していたには貿易で外貨が必要だったため。昭和39年、海外旅行が自由化された。日本で最初のパスポートは約160年前。海外旅行がまだ珍しかった時代、ハワイ7泊9日の旅にかかった費用は36万4000円。国家公務員の初任給の約19倍で現在の物価に換算すると400万円以上。当時は時間がかかる格安ルートもあった。海外から来る外国人も少なかったため昭和45年大阪万博では外国人にサインを求める子どもたちの姿も見られた。昭和30~40年代の人気の新婚旅行先は宮崎県。昭和49年に結婚したカップル約100万組中約37万組が宮崎を訪れたというデータもある。
100年前の義務教育は尋常小学校の6年間のみ。当時は小学校卒業後は家の手伝いをする人も多かった。100年前の大学数はわずか37校で進学率は1.7%ほど。女性で大学に行く人はほとんどいなかった。日本戦前の教育は男女別学が原則で学習内容や教科書も男女で別のものだった。100年前は識学率の向上や標準語の普及が目的で国語の授業が多かった。
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- 文部科学省ホームページ桜田中角栄
ランドセル・部活・修学旅行は100年前から存在していた。ランドセルは幼少の頃の大正天皇に伊藤博文が箱型の通学かばんを献上したのが始まり。部活動は明治時代に今の東京大学に招かれた外国人教師がスポーツ文化を学生に広め、学生たちが卒業後に教師となって全国各地の学校で部活動としてスポーツを広めたと言われている。
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