2024年8月10日放送 2:30 - 3:30 フジテレビ

託されし人たち〜被爆79年 約束の時〜

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(オープニング)
今回は…

被爆者の父を失った息子。その父の歩みをたどり始め日記を紐解く。さらに母から娘へ、母の思いを受け継いで一歩を踏み出した。20歳の伝承者が被爆者の声を届ける。

オープニング

オープニング映像。

(託されし人たち〜被爆79年 約束の時〜)
託されし人たち〜被爆79年 約束の時〜

2023年11月に一人の被爆者がこの世を去った。細川浩史さんは95歳。長年にわたって、被爆証言続けてきた細川さんは原爆の恐ろしさと世界の平和を訴え続けてきた被爆者の一人。1945年の8月6日に広島に落とされた原爆。浩史さんは当時17歳で爆心地からおよそ1.3キロの距離の勤務先の建物で被爆。爆風で飛び散ったガラス片が体中に突き刺さったまま必死の思いで逃げた。一命をとりとめた浩史さんだったが、爆心地から700mの場所で建物疎開中に被爆した妹を失った。女学校に通っていた瑤子さんが原爆で亡くなる前日の8月5日まで書き続けていた日記がある。浩史さんはこの日記帳を片時も離さずに生涯大切に持っていたという。英語版としても出版された日記は海外で評判を呼び、それがきっかけで浩史さんは被爆体験を語り始めた。2023年度末の時点で全国にいる被爆者は10万6825人。2008年度末に23万人を越えていた被爆者の数はこの15年間の数で13万人減少した。細川浩史さんが息を引き取って2週間、仏壇に手をわせていたのはその息子の洋さん。間近で見てきた老いゆく父親の姿に、懸命に平和を訴えてきた被爆者の死が大きく報じられる事はなかった。やりきれない思いと共に、手元に残っていたのは父が大切にしていた瑤子さんの日記帳。いつか広島の平和記念資料館に寄贈したいと考えているという。

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広島平和記念資料館広島第一県女一年六組森脇瑤子の日記皆実町(広島県)細川浩史細川瑤子羽衣町(広島)

洋さんは高校で40年間国語の教師として立ち、校長として多くの生徒を送り出してきた。退職を機に、第二の人生として歩み出したのは家族の被爆体験や思いを後世に語り継ぐ家族伝承者。広島市から認定を受けて被爆者の家族として思いを新たにする。父がなくなって2ヶ月、洋さんの姿は原爆資料館にあった。父の被爆体験を伝えていく覚悟で、浩史さんも見守っている。息子からみた父とは少し違う、語り部として懸命に歩んできた一人の人間の姿に触れた瞬間だった。父のことをもっと知りたいと洋さんは父の浩史さんの人生を変えたあの日をたどる。郵便や通信を担う、広島逓信局で働いていた浩史さんは大きな柱が原爆の爆風を防ぎ、一命をとりとめたという。その場所には今も建物の一部が残っている。父は何を考えていたのか?燃え盛る炎から逃げてたどり着いた河原では水を口にする死ぬという周囲の大人たちの言葉を信じて苦しむ男子中学生に水を飲ませることができず、その事をずっと後悔していたという。

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中区(広島)九軒町(広島)広島平和記念資料館広島逓信局東白島(広島)

今となっては、聞くことができないあの日のことだが被爆体験を語り継ぐ伝承者として、父の死が重くのしかかる。被爆体験の伝承は被爆者の減少や高齢化が進む中で広島市は被爆者に代わり体験や思いを伝える伝承者の養成をはじめた。伝承者は、被爆者にかわって体験や思いを伝え体験を語り継ぐ被爆体験伝承者と子や孫が体験を語り継ぐ家族伝承者にわけられ、あわせて264人が現在活動している。研修期間は概ね2年間で被爆者が亡くなると研修は打ち切りになり伝承者として認められない。伝承者養成に残された時間は限られている。

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広島市

母の被爆体験を語り継ぐために研修をうける一人の女性の八木慶子さん。八木さんが語り継ごうとしているのは、母の被爆体験と平和への思い。聞くことができるのは自分しかいないとそう考えている。母・喜代子さんがあの日を迎えたのは16歳のときで、父親の看病のために自宅にいたが、喜代子さんの家は一瞬にして倒壊し、遠のく意識のなかで父の叫ぶ声が聞こえた。父親と2人で助けを求めてさまよい救護所となっていた小学校で命を救われた。そうした辛い記憶は広島の人がそうしてきたように自ら語ることはなかった。あの日から79年が経過し、封印していた広島の記録を母は静かに語り始めた。いくら時を重ねても拭えないつらい過去に喜代子さんはあまり話したくないと答えた。母の心を開いたのは平和を考える娘の強い思い。

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北区(広島)

八木さんが始めて母の被爆体験を語る日に母の喜代子さんも一緒に訪れた。口にしたのは娘の心配だった。そして語り部として語る時間がやってきた。語りを終え、母から娘へ確かな一歩を踏み出した。この日洋さんが出迎えたのは、亡き父の浩史さんの被爆体験を語り継ぐ被爆伝承者。向かったのは世界遺産の島の宮島。この島には戦争当時に父とその妹の瑤子さんが住んでいた家があるという。書籍の森脇瑤子の日記の中で浩史さんは瑤子さんとの思い出について2人が戦時中に暮らしていた場所だという。その場所を洋さんは2人をもっと知りたいと初めて訪れた。その思い出の場所を伝承者たちと思いをともにした。父の原点に少しだけ触れることができたという。

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宮島口旅客ターミナル広島平和記念資料館広島第一県女一年六組森脇瑤子の日記廿日市市(広島)細川浩史細川瑤子

5月上旬に、洋さんの元を訪ねると、そこには瑤子さんの防空頭巾が。父の遺品を整理していた時に見つかったものだという。父が亡くなった今だからこそその人生に向き合っている。古い一冊のアルバムには瑤子さん幼い時の写真などがあった。しかし被爆者の思いは今踏みにじられようとしている。ウクライナやイスラエルでは武力によって市民の命が失われる事態が続いている。さらにアメリカは核爆発をともなわない核実験を敢行し、平和公園では被爆者等が強く講義した。原爆資料館の最後の核実験からの時間指数はリセットされた。2023年に行われたG7広島サミットの影響もあり連日に多くの人が訪れる原爆資料館。2023年度の来館者は198万人を越えて過去最多を記録した。その一方で、資料館の地下フロアは閑散としている。毎日四回伝承者の講話が行われるが人はまばらで、資料館で行われた講話の回数は1379回でこれまででもっとも多かったものの、聞きに来た人の数は2018年度のピークと比べ5000人ほど減っている。また参加者数の平均は講話一回に対し10人ほどで3分の2が空席で、誰も聞きに来なかったケースは33回にも及ぶ。洋さんもこの現状に不安を感じている。この日の洋さんの講話も集まったが空席は目立っていた。資料館の担当者も頭を抱えている。

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Xヴォロディミル・ゼレンスキー広島平和記念公園広島平和記念資料館広島第一県女一年六組森脇瑤子の日記第49回先進国首脳会議細川浩史細川瑤子羽衣町(広島)

広島市内の大学に通う増本さん。広島で生まれ育った大学3年生。20歳の最年少の伝承者。小さい頃から当たり前のように受けてきた平和教育。平和への願いはいつしか使命感に変わっていった。熱い思いはあるが、同世代の友人とのギャップも感じている。増本さんが伝承者として語り継ぐのは被爆者の岸田弘子さんの体験と思い。6歳だった岸田さんは、爆心地から1.5キロ離れた自宅のトイレで被爆した。当時のことを9年前から語り継いでいる。岸田さんの増本さんの年齢は60歳以上離れている。被爆者が当たり前に使っていた言葉も戦争や原爆を教科書のなかで知らない若者にとって初めて触れる言葉だらけだった。大学3年生の増本さんは伝承者といってもカワイイものが大好きで、同じ世代と変わらない今時の大学生。伝承者になって数ヶ月、自分にとって何ができるかと大学に働きかけて学生向けの講話をやることにした。原爆を知らない若者が知らない若者にどう伝えるのか?講話を控えたこの日、被爆者の原点でもある広島平和記念資料館を訪ねた。

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南区(広島)安田女子大学広島国際会議場広島平和記念資料館

核兵器を憎む気持ちは若者も同じだが、平和への思いが同世代に通じるのか、悩みながらも強い信念をもって講話に臨む。迎えた講話当日に緊張した様子でリハーサルを行う増本さんが。会場に集まった550人の学生たちにむけ伝承者としての増本さんの講話がスタートした。増本さんが最後に平和を望む気持ちを語った。若き伝承者に被爆者の岸田さんも期待を寄せている。

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安田女子大学広島平和記念資料館

6月下旬に細川洋さんは岐阜県を訪れていた。県外の中学校から講話の依頼があったという。体育館には1年生から3年生までの全校生徒およそ270人は待っていた。細川さんにとってが県外での初講話となる。ほとんどの生徒は広島の原爆を知らない子どもたち。子どもたちに父親の被爆体験を語ったが伝承者として子供に向き合う。洋さんは父の墓を訪れて父や瑤子さんの気持ちにもそえると思うと答えた。

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各務原市立稲羽中学校岐阜県廿日市市(広島)細川浩史細川瑤子
(エンディング)
エンディング

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