- 出演者
- タモリ 渡辺瑠海 木村佳乃 山田悟 福永輝彦
伊勢丹新宿店では開店前から大行列が出来ていて、お目当ては富士見堂のあんこ天米や鈴懸の鈴乃◯餅などの最新人気スイーツ。今回は伊勢丹新宿店で百貨店の人気を支えるデパ地下戦略を紹介する。伊勢丹新宿店のデパ地下のショーケースは高さが惣菜・洋菓子・和菓子の順に高く、和菓子は上からの見た目が際立つように上から見えるような高さにしている。容疑者は横の断面も見てもらいたいため和菓子よりやや高く、惣菜はボリュームや照りを感じられるように最も高くしている。他にも和菓子・洋菓子は配送伝票を書くこともあるため文字を書きやすいように高さを低くしている。また照明も揚げ物で暖色を使い、サラダは白みのある照明を使うなどそれぞれの食べ物が一番美味しく見えるように工夫している。
オープニング映像が流れた。
デパ地下で売られている惣菜の量り売りは店員さんにとって至難の業。ポイントは「盛り山を崩さない」、「パック内の具材バランス」、「少ない回数で取り分ける」の3つ。タモリさんも実際に挑戦し、重さに関しては5gの誤差にとどめたが、盛りつけではサーモンが見えていないなどの違いがあった。
- キーワード
- RF1
日本のデパ地下の包装技術が世界で話題になっている。包装は日本の文化の中で大事な位置付けになっている。山本海苔店の古澤店長いわく、丸い筒を包むのが一番難しいとのこと。古澤さんは16秒で包み終えたが、タモリさんは「滑る」などと苦戦していた。
三越や伊勢丹は元々呉服屋で、畳の上で座売りをしていた。その時に客の下足を預かる場所が地下にあったという。しかし関東大震災直後に群衆が店に押し寄せて下足置き場が大混乱になったことから、どの百貨店も震災後の新築工事を機に土足を解禁。その後不要となった下足置き場の空きスペースに食料品を置いたのがデパ地下の始まりだという。そして地下鉄が開通したことによって地下に人が多く集まるようになり、デパ地下の繁栄につながったという。さらにデパ地下を訪れたお客さんが上の階にも行きたくなる「噴水効果」が百貨店全体の売上に大きく影響しているとのこと。
デパ地下について百貨店の進化と裏側を徹底調査。売上と店舗数ともに右肩下がりとなっている百貨店だが、山田悟は「人口減少や購買意欲の定価、ネット通販の台頭が見られる。」などと話した。百貨店の不振が続く中、衣料品に変わって主軸となってきたのが食料品。1991年は衣料品が40.4%、食料品が19.9%の割合だったが、2023年には衣料品が26.9%、食料品が27.4%となっている。福永輝彦は「コロナ禍になり家に持って帰って食事するのが定着した為、デパ地下が再度注目されて売り上げが上がっている。」などと話した。
東京駅八重洲口に進化を続けているデパ地下がある。1日約10万人が来店する大丸東京店では、弁当を年間500万個以上を販売。お弁当ストリートには約60mにわたって左右に魅力的な弁当が並んでいる。弁当はインバウンドにも人気。
大丸東京店は駅地下とデパ地下の間に境界線を敢えて作らないことでふらりと立ち寄れる百貨店となった。東京駅地下の売り場面積は約2万7000m²以上の広さ。このシームレス化に加え、大丸東京店では1階を人気スイーツの売り場にしている。ロンドンのデパ地下は高級住宅地にありセレブも多く利用している。パリを代表するデパート「ル・ボン・マルシェ」は本館とは別に食に特化した別館があり、選りすぐりの高級食材や惣菜などが並んでいる。その価格はパン1つが約1500円、ケーキ1個が2300円と高く客層も限られている。ニューヨークではデパートに食品売り場がない。日本のデパートは減少傾向にあるものの、全国には178店舗ある。
デパ地下が日本で初めて生まれたという説の1つが「高島屋長堀店」説。かつて大阪中心部で営業していた高島屋長堀店にあった常設 高島屋市場が日本初のデパ地下だと言われていて、当時は鮮魚店や鶏肉店などがスーパー代わりの場所として営業していた。高島屋長堀店は当時高級な化粧品や衣類のデパートだったが、デパ地下だけは庶民的な市場として親しまれていた。一方現代のような名店が集うデパ地下の先駆けとなったのが松坂屋名古屋店とい言われていて、80年ほど前に生鮮食品を販売する傍らで東西名物街として菓子類を販売する店舗などが軒を連ね、現代のデパ地下の原型だとされている。
当時は下駄や包丁を売る店や床屋さんなどもあり、中には現代の100円ショップのような店もあった。
89年前にデパ地下の原型を生み出したとされるのが松坂屋初代社長で後にデパート王と呼ばれることになる伊藤次郎左衛門祐民。祐民は31歳の時に渡米し、アメリカのデパートに衝撃を受けたという。帰国後祐民は江戸時代から続く家業の呉服店を明治43年にデパートにし、日本で初めてエレベーターガールを採用したり女性従業員の制服に洋服を取り入れるなど業界をリードした。祐民はデパートを経営する中で日本初のデパートである三越を常に意識していて、三越に対抗するために食に特化した東西名物街を作り、これが現代の専門店が集うデパ地下の先駆けだとされている。
1936年松坂屋名古屋店東西名物街の写真だ。室町時代創業の京都創業の和菓子屋「とらや」をカラーにした。「とらや」はおしるこなどを店内で食べることができる甘味処が併設されている。明治45年創業の大阪の乾物屋「松前屋」。北海道から取り寄せていた昆布や大阪の味が楽しめた。東京の佃煮店「有明家」。当時は東京だけで出店していた。名古屋は初進出だったという。大正13年創業の東京の本格洋菓子店「コロンバン」。コロンバンの当時の商品を再現した。いちはやく生クリームを取り入れた。砂糖をいまの倍使っていたという。タモリさんは生クリームを食べたときの驚きは忘れないという。
1977年の東映ニュースの映像が流れる。各デパートでは不況風を吹き飛ばそうと、歳末商戦はたけなわ。経済成長期の日本。1962年に首都高速が開通。1964年には東海道新幹線が開業。まい泉のヒレかつサンドがデパ地下からヒットした。大きさはいまでも変わっていない。東京宝塚劇場でタカラジェンヌが手や衣装を汚さずに食べられると人気の商品だった。1968年に日本橋三越本店に出店。1日3万箱売れる定番グルメだった。
1990年に女性をとりこにしたスイーツを紹介。1985年男女雇用機会均等法が制定された。キャリアウーマンが増加した。山口美江さんが出演したCMは多くの女性の共感を得た。雑誌ではHanakoが登場。ティラミスはデパ地下から全国へ大ブームになった。陰の仕掛人はバイヤーだ。生キャラメルや牛乳プリンなどをヒットさせた。年間200日以上は地方に行っておいしいグルメを探していたとのこと。2000年には緑マシマシ総菜。2000年にはデパ地下という言葉が定着した。RF1の30品目サラダがヒットしたという。健康ブームがデパ地下から出来上がったとのこと。2006年には、トリノ五輪で荒川静香選手が金メダル。宝石スイーツが大ブーム。ピエール・エルメ・パリのマカロン。ブログでの発信もあり、広まった。伝統のフランスのマカロンを日本向けにアレンジした。その後も、デパ地下からスイーツブームは続く。
デパ地下が生み出してきたブームについてタモリさんは「ティラミスはすごい人気だった」などと話した。また福永さんによると、百貨店で売り上げが上がらない店舗は呼び出しをくらうといい、逆に人気の店は別の百貨店からヘッドハンティングされることもあるという。福永さんは「百貨店の裏ではかなり熾烈な戦いがある」などと話した。
- キーワード
- ティラミス
大丸東京店で人気の「柿安ダイニング」ではボリューム感・躍動感・彩りを意識した「攻め盛り」を徹底し、客に惣菜の美味しさをアピールしている。そんな柿安ダイニングには1日に3回の山場があるとのこと。最初の山場はオープンまでに20種の攻め盛りを完成させること。開店2時間前から地下2階の厨房で調理を行っているという。店長の福迫さんは「いつもバタバタしている」などと話した。
柿安ダイニングでは年12回の料理講習を行い、若手から熟練の料理人にまで攻め盛りの基本を教えている。看板メニューの1つ「大海老マヨ」の攻め盛りで意識するのは海老の躍動感。海老を美しく見せるため、揚げた後に尻尾を180度ひねって開くという。また新作の「ローストビーフと香味野菜のゆずポン酢ジュレ」では具材のナス・水菜・ローストビーフの組み合わせの塊をいくつも作り、その塊を高く積み上げていくという。1つの塊が100gとなっているため、量り売り時の取り分けに便利とのこと。さらにサラダの山の角度とショーケースのガラスの角度を平行にすることで、ガラスを通して見た時の印象がアップするという。
柿安ダイニングの2つ目の山場は昼過ぎに売れても攻め盛りを美しくすること。昼過ぎになると福迫さんは商品の売れ行きをチェックし、売れて攻め盛りが崩れそうな商品は再度攻め盛りをする「盛り返し」を行う。
- キーワード
- 柿安ダイニング
「柿安ダイニング 大丸東京店」ではこの日、限定商品の「松阪牛入り メンチカツ」を通常の5倍にあたる300個販売する目標が出された。店の近くにはメンチカツを販売する店が柿安ダイニング含め5店あり、5店合わせてメンチカツは1日約250個売れる。その客を「松阪牛入り メンチカツ」で柿安ダイニングに集めることが販売個数5倍の戦略だという。
午後5時、惣菜のショーケースでは攻め盛りがキープされている。最後はパック詰めされ、全て販売された。一方、目標がかかったメンチカツは福迫店長得意の接客で目標を達成した。
- キーワード
- 松阪牛入りメンチカツ柿安ダイニング