- 出演者
- 塚原愛 鈴木浩介 山口もえ
磯田道史さんを紹介した。先人たちは災害の記録を残している。いかにして乗り越えてきたかがわかるという。
災害と闘った日本人の知恵を紹介する。日本の川は音がするという。日本の川は急勾配だという。日本の川は流れがはやい。外国人技士は日本の川は滝のようだと言った。洪水時と平常時の流れる水量比較を示した。ミシシッピ川は3倍、テムズ川は8倍、淀川は30倍、木曽川は60倍、利根川は100倍だという。日本の年間降水量は世界平均の2倍だ。梅雨や台風の季節に集中する。日本の川は急に怒る。そのため、治水の伝統がある。武田信玄の治水術がある。
戦国武将の武田信玄は山梨県を水害から守るため、知恵を巡らせた。甲斐の国は洪水多発地帯だった。四方を山で囲まれ、急流河川が幾重にも流れていた。信玄は信玄堤という堤防を築いた。急流河川から甲府盆地を守るための3キロの堤防だ。釜無川と御勅使川はくりえし氾濫を起こした。甲府盆地には様々な治水施設が存在した。石積出もある。城壁のような塊だ。御勅使川の流れをまとめるために作った。釜無川の下流域には、霞堤がつくられた。洪水ときには水の勢いを逃がした。洪水がおさまれば水が川にもどっていく仕組みだ。自然を巧みに操る治水術だ。
他にも武田信玄が考案したと言われる治水術がある。聖牛という材木を組み合わせた三角錐の建造物で堤防に設置し水の勢いを弱める効果がある。牛の角のように見えることから名が付いた。磯田さんは「戦争の防御陣地を作るのに似ている。治水工事のチームワークが信玄の強さにつながっている」と解説。Q.信玄が堤防を守るため利用したことは?A.お祭り。おみゆきさんという毎年4月に行われる水防祈願の祭り。「防災はハードウェアで行う防災と気持ちや技術のソフトウェアというハードとソフトの組み合わせが大事」と解説。戦国大名が行った自然を利用した治水の指標というのは実は現代でも効果を発揮している。2019年10月の台風19号によって横浜国際総合競技場周辺が浸水している時の写真。競技場は下が高床式になっていて下の駐車場へ水が入る。水が終わるとすぐにポンプが動いて水の汲み出しが始まって短時間で乾かして使うようにできる。翌日には排水を行って予定通り試合を行った。これは加藤清正の乗越堤に近い発想とのこと。
死者・行方不明者5098人。明治以降、最悪の被害をもたらした伊勢湾台風。観測史上最大の高潮が押し寄せ、名古屋市など伊勢湾沿岸の工業地帯を水没させた。高潮とは台風や発達した低気圧によって海水が吸い上げられ海面が上昇。そして沖からの強風で大量の高波が沿岸部に吹き寄せられることで被害をもたらす現象。この高潮により名古屋市南区では1417人の犠牲者が出た。港の貯木場から巨大な材木が押し流され住宅街を襲った。当時、台風の情報源はラジオ。しかも電池式ではない電源タイプがほとんど。ラジオからは名古屋地方気象台が高潮の恐れがあると厳重な警戒を呼びかけていた。しかし、強風による停電が発生。ラジオからの情報が遮断される。午後9時半過ぎ、観測史上最高の高潮が襲いかかってきた。当時、貯木場の横を流れていた天白川。高潮で堤防が決壊。大量の水と流木が町へ流れた。これほど大きな高潮被害に見舞われたのは理由があった。この一帯は日本最大の海抜ゼロメートル地帯。工業化による地下水の汲み上げで地盤沈下が進行していた。しかし、これらの地域は宅地化が進められ、人口が爆発的に増加。新しい住民たちにはこの場所での災害経験はなかった。実は伊勢湾台風の3年前に国は水害地形分類図を作っていた。水害リスクに関わる土地を色分けして表示している。オレンジ色は海抜の高い台地、水色は干拓地や埋立地など浸水リスクの高い低地。そして水害地形分類図が示した浸水の恐れがある地域は伊勢湾台風の高潮によって浸水した地域とほぼ一致していた。地図を作ったのは旧建設省の大矢雅彦技官。大矢技官の教え子の海津正倫さんが地図作成の経緯を語った。「戦後すぐにカスリーン台風・枕崎台風といくつもの台風がやってきて大水害を引き起こした。何とかしなくてはいけないということで国土の整備と防災でいろんな調査が行われた。そのときに作られた地図が水害地形分類図になる」と説明。愛知県・岐阜県の関係部署に送られたものの水害対策に活かされなかった。しかし、地図の有効性が国会でも取り上げられ、国土地理院が各地の詳しい地形を示した土地条件図を作成。これが発展して現在のハザードマップに繋がる。過去の教訓が防災力を高めることに繋がっている。
ハザードマップの先祖とされる水害地形分類図を紹介。磯田さんは「2018年7月の西日本豪雨では岡山県倉敷市真備町などに水害があったが、事前のハザードマップとほぼ同じように浸かった。一方でハザードマップには弱点も。天災は想定を上回ってやってくることもある。ハザードマップは参考にはなるけれどももっと凄いことが来ることもあるという気持ちがないと駄目」等と解説。
インターネット上で安否情報の登録や確認ができる災害用伝言板Web171について紹介。災害発生時、被災地への電話が繋がりにくくなった場合利用できる。伝言を送りたい相手の電話番号を入力後、伝言を100文字以内で入れ登録したら完了。一方送られた側が確認するときは、自分の電話番号を入力し確認を押す。体験利用日も定期的に設けられているため、練習して慣れておくのがおすすめ。
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日本人が津波災害にどう備えていったのかを見ていく。山口さんは「日本海側でも津波ってくるんですね」とコメントした。
1854年12月23日午前9時頃、和歌山にある広村で突如M8.4の大地震が発生。さらに翌24日夕方4時頃、前日と同様の大地震が再び発生した。いわゆる南海トラフ地震である。震源地は静岡県沖合と、和歌山県沖合。この時最大16mに及ぶ大津波により、全国で数千人が犠牲になった。この時村を救ったのは濱口梧陵という人物である。梧陵は地震に呆然とする村人たちに、高台の神社へ避難するよう呼びかけた。避難先の神社は港から約1.6km。村人たちがこの神社を目指す中、津波の第一波が広村を襲った。日が沈みあたりが暗くなっても、まだ多くの村人が逃げ遅れていた。
松明を手に逃げ遅れた村人を探す梧陵は、とっさに”稲むら”と呼ばれる藁の山に火を放った。高台への道を照らすことで避難誘導を行ったという。梧陵の迅速な避難の呼びかけと稲むらの火の機転により、全村民の97%にあたる1287人の命が救われた。地震と津波から3か月。梧陵は村を守るため防潮堤の建設を提案する。計画した防潮堤は前代未聞の大きさで、全長600m底辺20m高さ5mだった。4年の歳月をかけついに防潮堤が完成する。防潮堤の外側には波の勢いを減らすため、1000本の黒松も植えた。それから88年後の昭和21年。防潮堤が昭和南海地震で効果を発揮する。
鈴木さんは「梧陵さん素晴らしいですね」とコメント。磯田さんいわく、梧陵は税金を使うことなく全て自分のお金で防潮堤を作ったという。また梧陵の稲むらの火のエピソードにちなみ、2015年には11月5日が世界津波の日に制定された。
村を守る防潮施設を築いた和村幸得さんは東日本大震災後に村中の人から感謝されたという。和村幸得さんは防潮堤の高さで妥協をすること無く、15mが認められた所に0.5を書き加えて50cmでも高くしたという。
磯田道史は反実仮想を考える教育が災害時には重要で、予め起きていないことを仮想して行動を話し合うことが災害時に生存するのに重要である等と話した。
群馬大学共同教育学部では水場のくらし かるたトランプを政策し水害時の工夫を伝えている。地元の小学生が取材をして絵も自分たちで描いたという。
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