- 出演者
- バカリズム 林修 斎藤ちはる 伊沢拓司 伊集院光 宮澤エマ 市川右團次
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大阪市淀川区の企業に勤める木田謙三さんは、会社の財務や総務・広報などを担当している。木田さんは毎週土曜日にバドミントンをするのが幸せの時間とのこと。大学時代から初めて歴はもう50年になるとのこと。現在は奥さんの正子さんと一緒にプレーしているという。
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東京・千代田区の帝国ホテルは渋沢栄一が初代会長を務め、迎賓館の役割を持たせるために開業したことで知られる。渋沢は従業員に対し「君達が丁寧によく尽くしてくれれば 世界中から集まり 世界の隅々に返っていく人達に 日本を忘れずに帰らせ 一生日本を懐かしく思い出させることのできる 国家のためにも非常に大切な仕事である」と言葉をかけたのだといい、マリリン・モンローやチャップリンなど海外の偉人が足を運んだことでも知られる。
帝国ホテルは部屋をチェックする専門のスタッフを持つことでも知られる。インスペクターという清掃の最終チェックを担うスタッフは絨毯に靴の足跡がつかないように靴を脱いで備品の不備や清掃のたりない箇所の有無を確認していく。書き残しの存在しないメモパッドも筆圧が残っていると電話番号などの情報が漏洩する恐れがあることから、白い状態であっても確認が必要なのだという。ドアマンは1日数千人もの利用客を迎えることから運転手のタクシー代両替のための紙幣を準備し、清潔さのある白い手袋は手荷物がよごれないよう1日15双以上使うという。ベルスタッフも最悪の事態に備えて人工呼吸用のマウスピースを所持して業務を行っている。帝国ホテルは日本初となるホテルでのランドリーサービスを導入し、ドレスも含め1日約1000点もの衣類が集まるだけでなく、ボタンがかけていた際のために200種以上のボタンを用意している。バイキングを初めて日本で用意したのも帝国ホテルという。
東京・中央区の築地本願寺は1617年頃に浅草に作られたのが始まりだったが、大火により焼失すると当時は海だった築地へとわたっている。築地は築地本願寺を築いた土地であることが名前の由来とされる。境内には築地本願寺カフェ Tsumugiがあり、こちらも賑わいが見られる。専門家の倉方俊輔氏によると築地本願寺は多様性を取り入れている寺だといい、ドーム状の屋根や巨大な柱はインドを思わせる作りとなっていて、日本の寺社は狛犬が並ぶのに対し築地本願寺は狛犬ではなく迦楼羅がいる。さらに、中は日本の寺のような作りでありながら、パイプオルガンが設置され蓮の花のステンドグラスやシャンデリアなど西洋らしい作りとなっている。設計者は東大の正門などを手掛けてきた伊東忠太で幕末に開国し文化が入ってくる中で、インターナショナルな作りを志したのだという。明治時代築地は外国人の居留地として学校や病院も作られる中で、様々な国の人を受け入れる寺を志したのだという。今では法話のど自慢世界大会というユニークなイベントが行われるだけでなく、パワーリフティングの大会も行われているという。
第5位は「東京国立博物館」。明治5年に創設された日本で最も歴史の長い博物館とのこと。東京ドームの約2倍の敷地に貴重な文化財が数多く展示されている。本館は建物自体が重要文化財になっており、所蔵数は約12万件とのこと。重要文化財は649件・国宝は89件所蔵されている。かつては「モナ・リザ」が期間限定で展示されたこともあるとのこと。そんな東京国立博物館で見るべきものの1つが「古備前包平」で、戦国武将の池田輝政が愛用した日本刀であり、通常の日本刀の3分の2の重量だという。また現在は中尊寺にある国宝仏像の特別展示が行なわれているとのこと。また東京国立博物館の設立に携わった田中芳男は、近くにある上野動物園の開園にも関係しているといい、田中が湯島聖堂で動物の展示を行ったことが上野動物園の開園につながっているとのこと。
第4位は「明治神宮」。1920年に明治天皇と昭憲皇太后を祀る神社として創建され、現在は年間の参拝者数が約1000万人だという。その半数は外国人とのこと。周りには東京ドーム約15個分の面積にわたって広大な森が広がっている。明治神宮の森は未来永劫に続くことを目指した人工の森で、林学博士の本多静六が設計を担当した。本多は150年後までを見据えて綿密なシミュレーションを行ったという。本多は成長速度の異なる針葉樹と広葉樹を計算された配分で植え、針葉樹が枯れると広葉樹が圧倒し、針葉樹の栄養によって広葉樹が永久的に成長できる強さになることを見越していた。
東京の名所3位は東京タワー。昨年開業65周年を迎え、年間200万人以上が訪れている。現在は展望台の窓にプロジェクションマッピングを行っていて、夜景と映像が融合した幻想的な世界を楽しむことができる。東京タワーの設計は通天閣などを手掛けた内藤多仲が行い、当時世界一の320mの高さを誇っていたエッフェル塔超えを目標にプロジェクトがスタートした。一方当時の人々は日本が台風・地震大国であることを理由にエッフェル塔声の高層建築物の建築は不可能だと指摘していた。
東京タワーの建設にあたっては風対策が重要になり、当時設計を担当した内藤多仲はコンピューターのない時代でもミリ単位で計算をして設計図を作った。設計では柱が上にいくにつれて細く薄くなっていて、上部を軽くすることで風や地震に強い構造になっている。また鉄骨を筋交状に組み合わせることで、強度を底上げしている。
東京タワーは様々な事情からわずか1年半という工期での建造を求められていたことで、職人は命綱無しでの作業を当たり前のように行っていた。あこがれの仕事となる中で誰も避けようとしなかったとの話が聞かれる。さらに、鉄骨を使うために作られた800℃に熱せられた超高温の鉄のピンを手渡しせずに投げて運ぶという荒業も行われた。
東京・日本橋は近代的なオフィスビルが並ぶ印象の一方で、下町情緒が今も残っている。江戸桜通りは桜の名所であり日本橋三越本店や日本橋高島屋も並ぶことで知られるが、原点は徳川家康だという。専門家のフレデリック・クレインス氏は江戸時代から町人文化の中心地だと紹介し、滝沢弘康氏は家康の都市計画の基盤だと紹介している。
日本橋は空襲や震災の被害を受けたものの今も江戸の名残があるのだという。日本橋人形町は江戸時代は人形浄瑠璃や歌舞伎の芝居小屋が繁盛したことが由来であり、日本橋大伝馬町・小伝馬町は伝馬と呼ばれる幕府の荷物を運ぶ仕事に務めていた役人の屋敷があったことが名前の由来となっている。日本橋は1603年に家康の命によって架橋され現在の橋は20代目となっているが、橋をかけることで江戸城の反対側から物資を呼び込む狙いがあった。日本橋の掛かる橋は日本橋川と呼ばれ優先して整備を進めてきた。江戸城と日本橋川をつなげて海からも物資を運ぶことが可能となった。かつて江戸城前は半島・江戸前島がひろがり、家康はここを埋め立てた上で、江戸城から最短距離の海路である日本橋川周辺の開発を進めていった。さらに、日本橋には道路元標というものが設置されている。かつては港区の芝あたりが東海道の起点だったが、家康は日本橋を東海道の起点とすることで陸・水路の起点にしたのだった。日本国道路元標が設置され、中山道や甲州街道などの起点にもすることで江戸の中心に仕立て人口100万人超の都市を作り上げた。
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江戸が大きく発展した理由のヒントとなるのが、1699年創業のにんべん。にんべんはつゆの素などの調味料を製造する鰹節専門店で、本店の横にはかつぶしめしなどが味わえるイートインスペースがある。日本橋には、江戸から続く海産物の老舗が多いのが特徴。日本橋魚河岸とは江戸時代初期に誕生したとされる魚市場で、漁師たちが幕府へ献上した魚の余りを橋の周辺で販売し始めたのがきっかけ。その後関東大震災の後築地に移転し、現在の豊洲市場へと続いている。
第1位に選ばれたのは、東京駅。110年前に開業したターミナル駅で、約180店舗がひしめく駅ナカ商業施設ではグルメ・ショッピングを楽しむことができる。外国人が特に称賛していたのが、国の重要文化財である赤レンガ駅舎。東京駅の設計者は、近代建築の父と呼ばれる辰野金吾。関東大震災が起きた後、東京駅はほぼ無傷だった。
東京駅は見栄えからレンガ造にこだわって作られ、そのうえで耐震性を高めるために外壁用の化性レンガと内壁用の構造レンガの二重構造で作られている。内壁用の構造レンガを積み上げる前には鉄骨を組んでいき、その上にレンガを組むことで頑強な建築を果たした。このため東京駅は関東大震災でも倒壊せず、地震から2日後には運行を開始した。
スタジオからは今日の放送を振り返り、「先人の知恵の結集と未来に残したいという努力などを感じた」などの感想が出た。
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