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読売新聞グループのトップ・渡辺恒雄が、初めて映像メディアのロングインタビューに応じた。これまで70年にわたって取材者・当事者として日本の政治に関わってきた。渡辺の動向は日本社会に大きな影響を与えてきた。その行動や発言が物議を醸したことも。
95歳になった渡辺恒雄氏にコロナの影響で中止になっていたインタビューを1年半ぶりに再開する。トレードマークとなっているパイプについて健康に気を使うようになり控えているという。読売新聞グループのトップになった渡辺氏は平成の政治にも絶大な影響力を持っていて渡辺氏の証言を元に平成政治の舞台裏に迫る。
インタビュー初日語ったのは世界的地殻変動の衝撃を語った。その後の31年を予感させるような出来事が「ベルリンの壁」の崩壊し強大だった国ソ連が崩壊。日本はその変化にどう対応するか問われる事態に陥り、当時渡辺氏は変化しなければならないと考えていたという。湾岸戦争があり、アメリカから貢献してほしいという声があり方向として正しい選択だったと思うと話す。そして時代が激しく求めたのが政治改革で票は金次第とそれが当たり前だと思ってた政治家はダメであると話した。当時政治とカネの不祥事が相次ぎ、改革を求める世論が大きな潮流となっていた。そして小選挙区制が導入が検討された。多くのメディアが導入などを訴え、それを否定する人は「守旧派」というレッテルを貼られることもあった。そして1993年、自民党が初めて政権の座を失い55年体制が崩壊し、細川政権のもと小選挙区制が導入された。当時社説でも改革の旗を振っていた渡辺氏であるが現在は理想と現実とはざまがあってどうしても埋められない溝がある語る。また大木アナから政治家の器がちいさくなったと言われていることについて小さくなったと肯定した。
話は政界再編に転換する。渡辺氏は自身が仕掛け人だったと話す。当時バブル崩壊後の後遺症、災害などに対応しきれない政治への失望感が世論に広がっていた。渡辺氏は与党野党を巻き込んで連立工作を仕掛ける。政権を奪取した橋本龍太郎率いる自民党は小沢一郎が率いる最大野党と連携するかと内部で激しく対立していた。その後、安全保障関連で連携するが野中広務氏は「大政翼賛会」のような形になってはいけないと批判し禍根を遺した。渡辺氏は翌年自自連立に動き、野中と小沢の関係修復をはかった。
渡辺氏は小沢と不倶戴天みたいな仲悪いのを一緒にメシを食わせて会わせ、小沢と野中を会わせ互いに「よろしくおねがいします」と言わせるようにし、腹を割って話せる関係になり、2人共根は善だと思ったという。当時について小沢一郎氏は自自連立について野中氏から話があり、国連中心の安保政策などを伝えたという。野中氏を支えていたこともある鈴木宗男氏は当時、裏で具体的に動いたという話は聞いていないが小沢氏は元々自民党にいた方だから何かしらのパイプがあっても不思議でもないなど話した。
1998年に自自連立が合意された。一方で自民党は公明党を連立の相手として引き寄せるという思惑もあり、自由党にはその緩衝材の役割を期待していた。その1年後自自公連立が合意され、今日まで続く日本政治の雛形がこのときに作られた。連立工作にも関わったのかと聞くと渡辺氏は創価学会の池田大作名誉会長と懇意していると話し具体的な言及は避けた。その後自由党は考えなどから連立から離脱した。
東京大学の御厨貴氏は渡辺氏の政治との独特の距離感について一般論は通用しないところまで突き抜けた、読売の社長であり筆政である、渡辺恒雄個人としてやれることはやりたいという所にいっちゃったんだろうと思いますと話した。
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平成期の渡辺氏には政治記者、新聞経営者の他に読売巨人軍のオーナーとしての顔を持っていた。平姓8年にオーナーになると絶大な影響力を持つようになる。巨人について読売新聞にとっても大きな存在だと話す。球団経営者の顔をよく知るのが巨人の代表を勤めていた山室寛之氏は野球協約の勉強をするなどその仕事っぷりに驚いたという。この野球協約の知識を発揮したのが2001年横浜ベイスターズの株が譲渡される際、一度はニッポン放送に決まるがその親会社はヤクルトのオーナーであるフジサンケイグループで両方を支配することになるのではないかと渡辺氏が主張し、白紙撤回されたという。
球団オーナーとしての渡辺氏を注目を集めたのが球界再編問題の時で1リーグ制の流れが加速していき、渡辺氏は1リーグにした方が良いと話す。渡辺氏は巨人・阪神は儲かる球団でみんな当たるようになれば球界全体でもうかるようになると考えていた。一方で選手会は1リーグ制に激しく反対しており、渡辺氏は記者陣に「無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかんよ」など発言し、様々なメディアが報じて1リーグ制への流れは失速した。発言について当時を振り返り渡辺氏は腹は立ったが、野球に対する関心が高まり巨人の収入は減らないと話す。またあの時記者が「選手がオーナーと会って談判してやっつけると言ってますよ」と言ってきてそれに対しての返答し利用されたなど話した。引っ掛けのような質問するなどこれもまたマスメディアの一面と同意した。山室氏は当時既に球団代表から退いていたがこの発言から渡辺氏を案じていて「たかが選手」のところだけが切り取られて気の毒だと思ったやただもう少し野球という深みを把握していればあの発言は出なかったと思うなど話した。
御厨氏は経営者の視点とファンの感情との乖離が今回の騒動が背景にあったと分析する。渡辺氏は騒動を振り返りあれだけ反対で潰されてやられるとね面倒くさくなる、もう勝手にしやがれと手引きしちゃったねと話した。一方ででこでもぶつかるようにした方がプラスだなという気は今もしていると話した。
現在も社論の最高責任者である渡辺氏は毎週行われる社論会議では議長として指示を出している。主筆として力を入れているのが提言報道。安全保障など様々な分野で提言に踏み込んでいった。中でも力を入れたのは憲法改正に関する提言報道で渡辺氏は過去3回ほど試案を発表している。渡辺氏は憲法は進駐軍にゴマすって作ったものでそんなものは日本の憲法ではないとなど主張した。
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提言報道にこだわり保守の論客として独自のスタンスをみせたのが小泉純一郎氏に対してだった。ワンフレーズポリティクスと呼ばれた手法をとっていた小泉氏に対して批判的な論調をぶつけたのが靖国神社参拝についてだった。小泉氏は内閣総理大臣になってから6回、参拝しており2006年には終戦の日に参拝、その理由について心の問題としたが渡辺氏は「心の問題」だけではすまないと批判する社説を掲載した。この半年前、渡辺氏はライバルである朝日新聞社の論談誌に登場し総理大臣の靖国参拝について論じていた。その相手は渡辺氏と浅からぬ因縁をもつ若宮啓文だった。当時の編集長だった薬師寺克行氏は同じ問題意識を持っていると思って対談を申し込んだ。すると1、2時間後に返事があり「さすが」と思ったという。当時歴史を美化し自虐的な史観を否定するというグループがあり、若宮さんと対談して世の中にメッセージを送ろうという動機が会ったのではと話した。話は2時間人も及び意見は多く合致した。この対談が掲載された論談誌は異例の売れ行きをみせ瞬く間に完売した。
小泉政権は5年の長期政権となりその反作用として政治は再び流動化してい、自民党は野党に敗れるなどねじれの状態となった。政権交代が囁かれるようになり渡辺氏は大連立を動かそうとしたのが渡辺氏だった。自民党が中心で政治を行い、ときには連立が必要になるときがあるという考えあった。当時、首相を勤めた福田康夫氏は大敗後の大連立はあんまり考えていなかったが総裁選挙をやっているときに渡辺氏から連絡があったとうい。渡辺さんからみたらじれったかったのではと話した。渡辺氏は当時民主党を率いていた小沢一郎と調整するため斎藤次郎さんとコンタクトをとっていてたという。渡辺氏は自民党は犬猿の仲だった2人の政治家を毎日新聞の2人組の記者が引き合わせて保守合同にいたり、それを真似したらできたという。
大連立を密かに計画していた福田氏は仲介役を依頼したという。小沢氏は大連立について当時の民主党の議員はほとんど政府の仕事を経験しておらずクンで経験すると選挙戦で有利になるという2つの大きな意味を持っていると考えていた。党首会談が行われるなど順調に進むと思われたが小沢さんの方から党内がまとまらず、反対され断念したという。大連立が成功したら全く違った政治風景が見れたと考えを持つと福田氏は述べた。
御厨は渡辺氏の権力が昭和の頃から上がったことから水面下で動くことを困難にしたと分析する。それが彼の動きに規制は入ることになってしまう。昭和初期は大野伴睦など一緒に伸びていく政治家がいたが平成は教え育てるという状態になり直接接触が少なくなり手入れも粗くなってしまったと話す。渡辺氏は権力との距離感についてある程度踏み込むと書けるような材料が入ってきt情報に困ったことはないなど話した。
インタビューを終えるにあたり、現代日本のついて聞いた。近頃の政治家は易しいことを難しく言えばいいという気がするぐらい言うことが晦渋、もうちょっとわかりやすく言ったらどうかななど話す。そして平成期の政治はポピュリズムに傾斜していたのではと警鐘を鳴らした。メディアの役割についてうまく適合すれば生き残れ昔の新聞ままじゃしょうがないなど話した。
エンディング映像。