- 出演者
- 蓮見孝之 八代英輝 森朗 上地雄輔 松嶋尚美 三田寛子 恵俊彰 伊藤隆佑 平野ノラ 小林由未子 近藤夏子 皆川玲奈 佐々木舞音 南後杏子 御手洗菜々
2つ目の理由が円安。円安の方が輸出の場合には企業は儲かることになる。日本の輸出企業は業績がアップし、輸出企業の株は売れるようになるため株価が上がるという。
3つ目の理由はトランプ関税の先行き不透明感解消。4月3日にトランプ大統領が相互関税を発表し、その後日米の間で関税協議が行われてきた。先行き不透明感が広がっていたが、8月8日、9回目の閣僚級協議後の会見で日米間で関税のズレが浮き彫りになっていたが、アメリカ側は大統領令を修正する方針を示し、自動車関税の引き下げについても大統領令修正と同じタイミングで引き下げ実施の意向が示された。加谷氏は投資家の心理として不透明感を嫌うのである程度目処が見えたことで株価が上昇したのではないかという。株価が上昇すると輸出企業の業績が拡大し、株価が上がる、輸出企業の賃金が上昇し、消費が増える、そうすると国内企業の業績が拡大し、国内企業の賃金も上昇するという流れになるという。
全国戦没者追悼式が東京・千代田区の日本武道館で行われ天皇皇后両陛下は黙祷を捧げられた。天皇陛下は「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ 私たち皆で心を合わせ 将来にわたって 平和と人々の幸せを追及し続けていくことを心から願います」と述べられた。6日には広島・平和記念式典で石破総理が「世代を超えて継承しなければならない」と述べる様子も見られる。戦争の記憶をつなぐことは大きな課題となる中、狩俣日姫さんは沖縄戦を知ってもらう取り組みを行っていて、6月には沖縄・平和祈念資料館を訪問された天皇皇后両陛下と愛子さまに語り部活動を行っている。今回は狩俣さんの授業から戦争の記憶のつなぎ方を伝えていく。
「東京2025 世界陸上」のお知らせ。
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「東京2025 世界陸上」のお知らせ。北口榛花も参戦。
戦争の記憶の繋ぎ方について、狩俣日姫さん・佐古忠彦氏とともに伝えていく。佐古さんは沖縄戦から歴史は地続きであり、様々な問題が山積していると言及。狩俣さんは若い世代に対して戦争について伝える活動を行ってきた。戦前生まれの人はすでに11%まで減少しているが、八代さんは危機感を感じる若い世代が広島・長崎でも戦前生まれの人から話を聞き取るのは大切と話した。狩俣さんは戦争について伝える際に、なぜという疑問をもってもらうこと、自分だったらどうするかを考えること、周りの人と意見などをシェアしていくことを心がけているという。沖縄戦は太平洋戦争末期の日本軍と米軍の戦いであり一般の住民も巻き込まれたことで知られている。
1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸、日本軍と激しい地上戦が行われた。沖縄が戦場になった理由について生徒たちが考える。朝日新聞木村さんは「日本本土を攻撃するための拠点に沖縄を使おうと考えた。日本は考えていた本土での地上戦には準備に時間がかかりなるべく沖縄に留めたかった、時間を稼いでおきたかった」とした。平和教育ファシリテーター狩俣日姫さんは日本とアメリカ軍の戦力差について疑問を投げかけた。戦争中の沖縄の夜空を捉えた写真ではアメリカ軍の無差別の砲弾は「鉄の暴風」と呼ばれている。戦力差は55万と10万、戦力では10倍以上で日本では沖縄で住民を急きょ兵隊にしたり子どもたちを戦場に投入した。一方的に教えられるより考えることでより深く学ぶと狩俣さんは考えているという。
九州を疎開するため沖縄から多くの子供たちを乗せて出港した学童疎開船「対馬丸」。この船に当時9歳の平良啓子さんも乗船していた。対馬丸に乗っていた1788人は海に投げ出され、1484人が犠牲となった。啓子さんはいかだで6日間漂流。その後、無人島へ漂着。半年後、やっとの思いで沖縄へと帰るが、いとこの時子さんのお母さんに「あなたは元気で帰ってきたのに、うちの時子は太平洋に置いてきたの」との言葉をかけられた。戦後、啓子さんは小学校の先生になり、対馬丸の生存者として自らの体験を語り続けた。
平良啓子さんについて狩俣さんは「平和教育の先輩でもありながら体験者の方でもあるという私にとっては大切な方だった」と話した。若者たちは「疎開船なので小さな子供たちだったりとか、本来戦争に巻き込まれる必要のない人々に被害が及んでしまったことに心が痛みますし、私たちにとってはただの歴史上の出来事にしかならないので、そうじゃなくて今一度再確認する必要があると思った」等とコメント。
狩俣さんの授業の中で特徴的なのがロールプレイ教育。当時住民の置かれた状況や環境をまずは想像すること、生きるための選択をみんなと考えてシェアすることをロールプレイとして実践。「1945年4月1日、米軍が近隣の島に上陸したらしい・本島上陸も時間の問題・海には多数の軍艦・地域の人たちとガマ(自然洞窟)に隠れることに」。その時あなたらなどうするか。選択肢はA「1000人が入る大きいガマ」、B「140人が入る小さいガマ」。生死を大きく分けたという選択についてグループごとに話し合う。Aは2人、Bは21人が選んだ。中には他の生徒の意見を聞き迷う生徒も。1000人ぐらいの大きいガマでは実は全員が投降して全員が助かっている。小さいガマでは半分以上の人が亡くなっており、米軍の捕虜にされることをおそれ自ら命を絶つ人も多くいたという。
沖縄戦が始まる前の年の1944年11月18日に、日本軍は県民指導要綱を極秘のうちに出している。その中にあった大きな柱が、軍官民共生共死の一体化という方針。戦陣訓も徹底されていて、投降を絶対許さないという価値観があった。方針が出されてから新聞には徐々にその見出しが毎日のように出て、段々刷り込まれていったという。その上で、チビチリガマとシムクガマに逃げ込んだ話では、住民たちのなかには投降を許さないという価値観の中で、米兵に捕まると女性は暴行され男性は酷い殺され方をするというような教育をされてた経緯もあり、家族で集団死が始まったというチビチリガマで83人が亡くなった。シムクガマでは1000人が入っていたが、そのうちの2人がハワイ帰りの人で説得して投降。この2つが表しているのは、教育というのが当時いかに大きなものになっていたか。昔だからではなく、かなり大事なものとして大きな影響を与えたということは、今も同じことが言えるという。
“いま自分に何ができるのか”それぞれが考えた。青稜高校2年のオギさんは「いまAIとか発展してるので、最新の技術とかを使いながら歴史を体験としてみんなに伝えていくことが大切かと思った」、青稜中学1年のはるさんは「未来の人たちに伝えていくためにポスターを貼る」、青稜高校3年のみおさんは「実際に行って想像してみる。いろいろな視点、いろいろな考え方ができるようにした方が良い」、青稜高校2年のクロさんは「疎開の話とかだったり自分で考えて学ぶことでその当時の人の気持ちをほんの少しでもわかることが大切」など話した。
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戦争の記憶をどう繋いでいくのかという問い掛けに青稜高校のヒビキさんは「実際に洗浄にあった悲惨さが伝わるような物をいろんな人に見てもらう」、ももさんは「本やネットなどいろんな媒体を使って。沖縄戦についてよく知ってから家族や友達など身近な人を巻き込んで、映画やドラマなど皆さんが触れやすいもので知っていくことがすぐ実践できることだと思った。私は今度沖縄に修学旅行に行くので沖縄戦についての本を読んでいる」、みおさんは「実際に行って想像する。その上でお話を聞かせてもらい、資料を見る。対話をすることが大切」、あいりさんは「今ならまた生きている戦争経験者もいると思う、今のうちに直接話を聞いて今の人達に繋いでいけたら」など話した。平和教育ファシリテーターの狩俣さんは「だれかと意見を交換するということの前には大切なインプットがある。情報を知るということからはじめることが大事」などコメント。佐古氏は「個人個人のストーリーを聞くとより身近になる。その中で自分だったらどうするのか、その想像力をいかに広げていくか。それだけでも全く見え方が変わってくると思う」などコメント。八代氏は「第一次大戦以降、世界はいろんな制度を試みてきたが、いま実際それが守られているかというと、やはり民間人が多く犠牲になっている。私たちはどう考えていくのか、これからの人達と考えて行く必要がある」などコメント。今年6月には戦後80年の慰霊などのため天皇皇后両陛下とアイコさまは沖縄県を訪問。愛子さまは初めての沖縄訪問となった。両陛下は「若い世代に語り継がれて若い人達が平和を愛する心を育んでいくことが大切」だと継承への思いを述べられている。また、狩俣さんらとも懇談。
問題:天気が下り坂のとき飛行機雲は残りやすい、その理由は?A気温が低いから。B湿度が高いから。
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問題:天気が下り坂のとき飛行機雲は残りやすい、その理由は?A気温が低いから。B湿度が高いから。正解はB。飛行機雲ができる仕組みは温度が高い排気ガスが上空で冷えて水滴になり、飛行機雲になるという。雨が降るまえは空気中の水分量が多く、発生した飛行機雲は蒸発しにくいという。
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- 気象庁 公式ホームページ飛行機雲
それSnow Manにやらせて下さい、黄金のワンスプーン!、DOPE 麻薬取締部特捜課の番組宣伝。
東京2025 世界陸上のお知らせ。
終戦の日の今日、日本武道館で全国戦没者追悼式が行われ、天皇陛下がおことばを述べられた。正午に黙祷が捧げられ、天皇陛下がおことばを述べられ参列した遺族3358人が戦争犠牲者約310万人を追悼した。終戦から80年。遺族の高齢化が進み、参列予定の遺族のうち配偶者は4年ぶりにゼロとなった。また、戦後生まれは初めて5割を超えた。