- 出演者
- 長谷川雅紀(錦鯉) 渡辺隆(錦鯉) 本仮屋ユイカ
オープニング映像。
北関東のリアルドクター・コトー金子稔さんを紹介。スタッフが向かったのは群馬県の山奥。道中では車道に鹿が立ち往生するなどの様子がみられた。東京から3時間半とうちゃうkしたのは群馬・長野原町。長野原町は人口約5000人が暮らす街で浅間山、草津白根山に囲まれた高原地帯。金子さんについて街の人は割と若いや優しいなどの声が聞かれた。金子さんが勤務するのは1973年に開所された「長野原町へき地診療所」。へき地診療所は交通条件などに恵まれない山間地など医療の確保が困難な場所で自治体が設置するもので長野原町へき地診療所は、約2500人が暮らす北軽井沢・応桑地域にたった1つしかない町の診療所で医者は1人で看護師3人、事務2人で働いている。
金子さんの仕事の様子を見せてもらう。午前8時30分受付と同時に患者が訪れる。訪れたのは通院歴9年の89歳の男性で9年来のお付き合い。診察を終えると一息つく間もなく次の患者が訪れる。長野原町は65歳以上の高齢者が4割を占める高齢化地域。待合室の平均年齢は80歳であるが中には隣の村から診察へとやってきた子供連れのお母さんの姿もあり最高齢100歳、最年少0歳の地域住民全員の主治医で1日平均50人の患者を診療し、人手不足で大忙し。金子さんは患者が抱える疾患・健康問題をトータル的に診断し、必要があrば専門医と連携する総合診療科という名目で診察を行っている。そのため学ばないといけないことも多く、赴任してから取った資格も多く9年間で10種類以上の資格を取得してきた。
午後12時30分、午前の診療が終了し昼食を食べ、15時30分に午後の診療を開始するがその合間に往診を行う。往診する住宅は4週に1回の家もあれば2週に1回の家もあるという。15時30分に午後の診察が開始され17時に診察が終了する。すると夕方の時間帯でいかないと行けない場所があると話し向かったのは訪問診療で日中の都合がつかない患者のために閉院後も往診へと向かう。あさらに自宅には金子さんにつながる電話番号などが記載された紙を家庭に配っており、365日24時間で対応できるようにしている。
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- 癌長野原町へき地診療所
仕事が終わり帰宅すると思いきやバッティングセンターで息抜き。その後消防団の練習に参加。病気とはあまり縁がない若い世代との繋がりのため地域のコミニュティーに参加しており、休日には野球チームにも参加している。そして午後10時に帰宅しているがほぼこの時間だという。住まいは仮住まいだが長野原町の公務員として配属されており家賃は町が負担してくれている。金子さんの帰宅後の楽しみは晩酌で、料理は全くしないという。そんな金子さんは実は2児のお父さんで単身赴任で離れて暮らしているため会えるのは土日の限られた時間だけ。それでもこの道を進む理由を聞くと中学2年の時に「救命病棟24時」を観て医者になろうと決め24歳で医師免許を取得し群馬大学医学部附属病院で研修を経て救急医になった。しかし自治医科大学を卒業してへき地の診療所に赴任しないといけないため当初は3年働いたら救急に戻ろうと思っていたという。しかし半年やって3年では足りないと感じ町長に4年に伸ばしてほしいと直談判しさらに2年目の頭頃に10年やると宣言したという。2040年頃には年間170万人~180万人が死ぬとされ最後の場所が家と積極的な選択ができたら良いなと思っていて、安心して最期の時間を過ごせる町作りを目指して街の医療に取り組んでいる。その結果年間診療は年間300件に増えた。そして10年目を迎えた今年小学校跡地に診療所が移転し、広さも約2.5倍になる。そして今後も続けるが医者は増えないと話した。
続いてのぼっちさんに会いに向かったのは坂本龍馬の故郷高知・根室市羽根町。羽根町は世田谷区と同じ面積ながら住んでいるのは約1500人で街の人に話を聞くと昔はくじらで栄えていたやお遍路さんのお寺があるという。そんな羽根町で暮らすぼっちさんは木村洋介さん。木村さんは羽根町に住んで8、9年目で住んでいる家には10.5畳の和室などがある2DKの平屋一戸建て。44歳で現在独身である。
仕事場へは軽トラで移動。元々大阪出身であるなど話を聞く。道は舗装されていない山道を進んでいく。この山道を10往復くらいするという。仕事について沿岸部じゃないと出来ないと話す。そして車を止めて続いてキャタピラ車両に乗り換えて移動。道は元々無かったが木村さんが作ったという。
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- 大阪府
木村洋介さんに密着。急斜面を登ってチェンソーで「ウバメガシ」を切った。ウバメガシは温暖な気候の地で育ちやすい樫の木の仲間。木村さんは様々な種類の樫の木を1m80cmの大きさに切り、下に転がして移動させる。1回で700kgの木材を積載し移動。山での作業は月に10回行っているという。木を木村さんが作った山小屋へと運ぶ。小屋には高さ3mの窯がある。その上部へと移動し蓋のような部分を開けると、そこに伐採した樫の木を投げ入れる。作っていたのは備長炭で木村さんは炭焼き職人だった。備長炭は樫の木を使った炭で普通の木炭の倍の値段する。高知県は黒潮の影響を受けた温暖多湿ノア気候のため樫の木が育ちやすい地域で土佐備長炭は生産量日本一。中でもウバメガシを使った備長炭は最も良質とされている。
木村さんは修業を経て備長炭を作ってきた。窯での仕事は山での仕事を上回る過酷なものだった。窯には約1000本の樫を入れる。釜の上と億が1番いい炭となっており下は細い木、上は太い木と空気の通り道を作り燃えやすくなっている。この作業を数日に分けて5時間以上。7トンの樫を入れたら。最初は100℃弱で2週間くらい炙ることで水分が抜ける。仕事は他にも山積みでこの日は師匠の森本生長の窯へとやってきて舐めさせてもらう。270℃ぐらいになると炭化を始め、木村さんいよると酸っぱいとOKだという。窯の外から炭化をコントロールするため釜の前で寝泊まりもすることもあるという。そんな木村さんの1番の楽しみが食事で、川の水で米を炊くこともあり、備長炭と師匠からおすそ分けしてもらった猪肉の備長炭焼きを食べる。木村さんはかわいい彼女とかいたら最高と話す。
炭化を終えたら釜口から空気を送り込み炭の温度をさらに上げる「ねらし」をすることで窯は約1000℃になる。翌日、最も過酷な作業がまっている。窯の中は約1300℃で火花が当たらないように長袖を着ないといけない。1日で終えないと灰になってしまうという。最高点のところで出して灰かけて消すという。炭で縦割れは質が悪いという。質で値段が変わるので死活問題とだという。深夜2時に作業を終了。あとは最期に灰をかけて冷ましたら完成。完成まで1カ月、1度に800kgを年間10回程度しか作れない。そんな木村さんは年収は300~400万円くらいだという。そんな木村さんはアメリカに6年くらい住んでいたという。
炭焼き職人の木村洋介さんに密着。アメリカに6年住んでいてメキシコ人とかはメキシカンNo.1と話す人がいたが木村さんは日本一番みたいな気持ちはなかったが、歴史を調べると日本の方が全然かっこいいと再認識し林業をすることを決めた。さらに室戸市を選んだ理由はサーフィンだと話した。
続いてのぼっちさんは沖縄県・石垣島から1日3便の船で30分の所にある黒島に住む。島が平坦で自転車で回れ、外周は13キロで東京・中央区ほど広さであるが公共交通機関はないためサイクリングが最適。島には人口220人に対して牛は3000頭が暮らし主要産業は畜産となっている。ぼっちさんの中西悠さんは大阪出身で黒島に来て7年目で海岸ではあるものを探していたがメインのしごと場へと移動。やってきたのは「黒島研究所」でここではサメやクジャクなどが飼われているが研究しているのはウミガメ。
黒島研究所は1975年に設立されウミガメの生態や個体数の調査を行う沖縄県で最も歴史ある海洋生物の研究所。研究所には中西さんのほか上司の亀田さんなどがいる。また資金を稼ぐためウミガメ以外の生物を展示している。普段の研究の様子を見せてもらう。朝9時から浜辺を歩いてウミガメの足跡を発見して棒を刺して何かを探す。
ウミガメの研究員の中西さんに密着。ウミガメの足跡の先にある地面を棒を刺して確認する。ウミガメは6、7月が産卵のピークで個体数の増減を把握すrのが目的としている。また腕には腕章があり。これはこれはウミガメの卵を触る許可書で特に沖縄県は厳しくされていると話す。午後には水族館の業務がある。
普段の生活に密着。やってきたのは郵便局などがある東筋集落。その中で島で唯一買物ができる「たま商店」で食料品などを購入。そして研究所へと戻って来る。実は生き物をずっと見る必要があるため住み込みだという。釣ったバラハタなど調理した。そんな中にしさんが一番困っているのはお嫁さん探しで、島には同世代の女性はいないため恋に発展するのは難しいや民宿の人が助けてくれる時があるという。そんな中西さんは寂しさを紛らわすために趣味のチューバ演奏を行っているという。中西さんの給料は最低賃金は上回っていると話した。それでもこの道を進んだ理由を聞くと大学時代はウミガメ研究サークルに入り、そのときから繋がりがあり交流していくうちにスカウトされたという
翌日ウミガメの卵探しを再び行うと今回は無事に発見することが出来た。ウミガメが孵化するのは70%でその殆どが息絶え、成熟して親になれる確率は0.2%だという。中西さんはアオウミガメの産卵している様子を撮影した映像を見せてくれた。黒島には3種類のウミガメが産卵に来る珍しい島でなおかつ研究所から砂浜までの距離が近く観察に一番適した島となっている。
続いてのぼっちさんは宮崎市から約150キロ車で運転して到着する椎葉村。椎葉村は平均標高が約500mで約96%が森林で傾斜地に階段状に造られた水田は「仙人の棚田」と世界農業遺産に登録されている。また総面積は東京23区に近いが人口は2230人ほどとなっている。ぼっちさんの事を町の人達に聞くと小学生も「鈴木」と知られていた。そしてぼっちさんがいる場所へと向かうと無数の池があった。鈴木宏明さんが池で作業していて中にはチョウザメがおり、仕事はチョウザメの養殖とキャビアの製造を行っているという。池は17個ありチョウザメは1万匹いるという。
鈴木さんの仕事に密着。まずは餌やり、原料は大豆・昆布・魚油で夏の時期は1日100kgあげるという。生き物を扱うため任せっぱなしでいいものはできないと一人でやるのが心情。餌やり後は水槽の掃除を行う。毎日1日2つの池を2時間かけておこなう。さらに機械で水温などを管理、水は川の天然水を循環させている。チョウザメは約100年生きると言われるが卵を持ち始めるのは7~10年で、利益が出始めたのが最近だという。この場所が養殖に適した場所だったためこの場所で始めたという。そして年間でキャビアを売っている金額が約2億円ぐらいだという。
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さらに別の仕事があるということで車で山を2つ越えて日向市へとやってきた。やってきたお店では奥様の鈴木メリークリスさんと合流。お店ではキャビアを加工していた。キャビアはチョウザメを捌いて卵を網でほぐしピンセットで不純物を取り除き洗うがこの所要時間は約5日。鈴木さんの工場ではシャンパンで洗うことで全く臭みの無いキャビアが完成し人気となっている。そんな鈴木さんが椎葉で養殖している理由は家族だという。家は椎葉村の中で街に該当する場所に建てられている。自宅では両親と妻、娘2人の計6人で暮らしている。この日のご飯はテイスティング用のキャビアやチョウザメのカツなど。
椎葉村でチョウザメの養殖をしている鈴木さんを紹介。父親は代々建設業をやっていたが宏明さんが継いだら潰れると言われていて、それが嫌になり神奈川の大学を卒業しNTT東日本に就職。26歳の留学でメリークリスさんと出会い結婚。その段階で家賃を払うのが馬鹿らしく感じ実家に戻ってきたという。チョウザメの養殖自体は父が建設業の傍らやっていてそれを引き継いだという。しかしそれえもあのボンボンがやっているから上手く行かないなど言われ、さらにゲリラ豪雨でかなりのあk図のチョウザメが亡くなり、そこで悲しくなり情が湧いて、色々ビジネスの事を調べるなどチョウザメのために一心不乱に働いてきた。すると壊滅状態から年商2億円の企業になり逆転した。