- 出演者
- 塚原愛
オープニング映像。
東日本大震災と福島第一原発の事故。12年前、未曾有の災害が起きた東北。語り部が各地でその記憶を伝え続けている。津波から逃げた自らの経験を伝える語り部。原発事故によって一度は失われた故郷での暮らしを話す語り部。しかし、時の経過とともに、未来を担う若い語り部が悩みを抱えている。記憶をつないでいくために何が必要か。NHK福島放送局では、全国の語り部にアンケートを実施した。悩みを抱える東北の語り部が、アンケートを寄せてくれた人を訪ねる。今後の活動へのヒントを探ろうとする東北の若い語り部たち。教訓を未来へつなげるために、伝承の未来を考える。
今回は、災害などの教訓を次の世代へつなごうと活動する語り部について伝える。東日本大震災・原発事故を伝える東北の語り部には、時が経過する中で、被害や教訓をどのように伝え、どうすれば語り継ぐことができるのか、悩み、模索を続けている方々がいる。NHK福島放送局では、語り部クロスと題し、東北の語り部と全国各地で様々な伝承活動をする語り部たちをつなぐプロジェクトを始めた。伝えたいという思いが重なる語り部同士の交流で、未来につなげていくどんなヒントを得たのか。
岩手県釜石市、12年前大津波が街を襲った。死者・行方不明者は1000人を超えた。この街で語り部をする川崎杏樹さん。震災当時は中学2年生。通っていた中学校は津波に飲まれてしまった。川崎さんが津波から逃げた坂道。避難していた小学生たちの手を引き、1.6km先の高台まで必死で走った。川崎さんが高台から見た当時の光景を語った。あの日の記憶を伝えていきたい。川崎さんは3年前、地元の震災伝承施設に就職した。特に力を入れているのが、実際に避難した道を参加者と共に歩き、追体験してもらうことだ。伝承施設では、実際の被災経験を語れる職員は少なく、ほとんど川崎さんが担っている。多くの人々に話をしてきた川崎さん。活動に手応えを感じる一方で、不安を抱くようになった。自分の語ることが、災害の時に命を守る行動につながるのか、最善の行動を伝えるものなのか。言葉の重みに責任を感じ始めた。
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- 釜石市立釜石東中学校釜石(岩手)
全国の語り部は、こうした悩みにどう向き合っているのか。NHK福島放送局では、500人以上にアンケートを行った。戦争・災害・公害などを伝える語り部から、200を超える回答が寄せられた。そのアンケートを東北の語り部のもとに届ける。話してみたい人や地域を決めてもらい、悩みを分かち合い、活動を続けるヒントなどを語り合ってもらうことにした。川崎さんが訪ねるのは、阪神・淡路大震災で被災した地域だ。
アンケートに答えてくれた福田敬正さんはボランティアで語り部活動を行っている。福田さんは語り部として語る場所は今も震災跡が残る「神戸港震災メモリアルパーク」。1995年1月17日に発生した「阪神淡路大震災」は死者・行方不明者は6400人を超えた。28年前の災害を今に伝えるためにどんな工夫をしてきたのか川崎さんは聞く。福田さんは遺構などは後世に残していけるものなのでなにかメッセージ的なものを伝えられるものがあるのは有効なのではないかななど話した。続いて向かったのは淡路島。淡路島で20年近く語り部を続ける米山正幸さんがいる。野島断層保存館では当時の震災状況などが再現された展示などがされている。米山さんは当時妻と生後間もない娘と暮らしており、激しい揺れの中娘を賢明に守った。語り部としては自らの体験のほか人の体験も語っている。
この日、米山さんは語り部として活動する娘の未来さんも連れてきてくれた。川崎さんは悩みとして伝えていくことで発する言葉の重みなどに葛藤を覚え始めたと話す。米山さんは言葉の重みは感じていて自身の体験が100%正解じゃないと言っていて同じ阪神淡路大震災でも都会の神戸と田舎の淡路で差が出ており、自分の地域に落とし込んで使ってねと話したら楽と話す。未来さんは地震発生時生後2か月で震災の記憶はないが父に憧れ5年前に語り部として活動を開始した。当時の状況を聞き取りライブ発信で伝え続けている。未来さんは「記憶が無いやつが語るな」などの批判は届いているがいつか来てしまうそのときのために伝えていきたいと思っていると話した。米山さんは1つの体験で伝えられる教訓は1つでいろんなところから集まって話しを持ち寄ることで2つの話が4つになるかもしれないなど話した。
去年からNHK福島放送局で始まった語り部クロス。武田のこれまでの取材経験が番組制作のきっかけとなった。以前勤めていた長崎放送局では、原爆について伝える語り部を取材してきた。福島でも語り部を取材。中でも若い人たちに様々な悩みがあることが分かった。東北の語り部はどんな悩みを抱えているのか。アンケートを災害伝承が専門の研究者に分析してもらった。全国の語り部と比べ、悩みとして多くあげられたのは、周囲の無関心だった。さらに、活動と仕事との両立も悩みとして多くあげられた。
宮城県石巻市、「震災遺構 大川小学校」。東日本大震災で、児童・教職員計84人が犠牲になった。ここで語り部をする永沼悠斗さんは、仕事と活動の両立に悩む1人。大川小学校に通っていた弟と、祖母・曾祖母を津波で失った。震災から5年後、大学生の時に語り部として活動を始めた。永沼さんが語り部を始めた当時は、同世代の仲間が数多くいた。しかし、時間が経つにつれ、若い世代が活動から離れていくようになったという。悩む永沼さん。自分と同じように仕事をしながら活動を続けている長崎の語り部に会いに行くことにした。
アンケートを寄せてくれた田平由布子さん。田平さんもまた、同世代が少なく孤独感を抱いていた。5年前から語り部として長崎の被爆の記憶を伝えている。1945年8月9日、長崎に原爆が投下された。被爆者はどんな思いで生きてきたのか、田平さんは直接話を聞き取る活動を始めた。被爆者が少なくなっていく中、受け継いだ記憶を途絶えさせたくない。その思いで仕事と両立しながら活動を続けてきた。2人は、就職などのタイミングで辞めてしまう人が多いと話した。田平さんは、仕事との両立で新たな機会があったという。違う分野にいる人と交流したり仕事することは価値があると話した。対話は2時間に及んだ。
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福島県大熊町。福島第一原発のある町だ。この町を知ってほしいと小泉さんは活動をしている。大熊町は全域に避難指示が出た。当時中学二年生だった小泉さんは町を離れた。家は4年前に取り壊した。避難生活を送ったがふるさとのことは忘れられなかったという。2019年、大熊町の一部で避難指示が解除された。小泉さんはある言葉に衝撃を受けた。大熊町ってもうないんじゃないの?と言われたという。地元で復興の現状を語り始めた。どうしたら正しく伝わるのか悩んだ。ハンセン病について伝える語り部に会いに行った。瀬戸内市に向かった。国立ハンセン病療養所の長島愛生園がある。かつてこの場所でハンセン病の患者が隔離されていた。感染力は極めて弱い。いまは完治する病気となった。誤った認識による差別と偏見は続いた。長島愛生園で学芸員としてつとめる田村さん。田村さんはハンセン病の元患者と接するようになって、気持ちが変化した。患者がどのような扱いを受けたかを語っている。想像し難い事実を伝えている。感染症は誰しもなる可能性がある。
小泉さんは、田村さんに会った。避難された人たちへの差別、コロナでの差別を受けた人たちがいる。長島愛生園の人たちは新たな差別は望んでいなと田村さんは言う。相手に伝わることばで話すことが大切だという。田村さんが語り部を小泉さんに紹介した。石田さんだ。10歳でハンセン病を患い、長島愛生園で暮らした。差別や偏見に苦しんだ。40年以上も語り部として活動をしている。とてつもない長い間の療養生活だった。隠さずに伝えることが大切だという。答えにくいことを尋ねてくれることに答え甲斐を感じるという。触れないと変えられないことはたくさんあるという。小泉さんは、今日、石田さんに会えたことが嬉しいという。7月下旬の長島愛生園。ハンセン病の元患者を慰霊する花火が打ち上げられた。語り部の話をきけて、いまの自分が感じることを語っていいんだなと思ったという。
小泉さんはNHKのプロジェクトに参加した。小泉さんはどうすれば関心を持ってもらえるのか問いかけた。子どもの目線で感じたことを知りたいという人がいた。主観を語るのが語り部だという声もあった。
東日本大震災と原発事故から12年半。過去を繰り返さず、未来を守るために、語り部は記憶をつなぎ続ける。