- 出演者
- 後呂有紗 桝太一 古市憲寿 長谷川ミラ
オープニング映像。
出演者の紹介。
きょうは九州だけでなく、近畿や東海、関東の一部で、雪が降った。3連休の中日、長崎市では正午ごろに吹雪となった。富士吉田市でも雪がふった。成人の日での晴れ着に気を使う様子もあった。
神奈川県箱根町の芦ノ湖を見渡す高台からの映像によると午前11時半ごろになると雪が舞い始め、およそ5分後には、さらに雪が強くなり、芦ノ湖も見えなくなっていた。バンキシャが出会ったのは、逗子市からカヌーを楽しむために来たという夫婦。晴れ予報と聞いて来たが、途中で雪が降ってしまったが「寒いけど、きれいだった」と話していた。雪は一生に一度の晴れの舞台の所にも影響が及んでいる。
全国各地で開催された、二十歳を祝う式典。雪が舞う中で行われた場所がある一方。きのうまで雪の予報が出ていた鹿児島市の成人式では髪の毛が湿気で崩れないようにスプレーでがちがちに固める対策をした新成人も。結果的に雪には至らなかったという。
気象予報士の伊藤宏幸は「日本海側ではあさって以降、雪や雨の降る日が続く。そして水曜日から木曜日は、一時的に冬型の気圧配置が強まりますので、再び大雪や吹雪になる所がありそう。交通障害、除雪中の事故などに注意が必要。東京は晴れて、週の前半、気温が高め。」とコメント。一方大学入学共通テストがある来週末については「高気圧に覆われてきますので、西日本や太平洋側では晴れ、全国的に見ても穏やかな天気になる」と予想した。
いまから80年前、米国軍に撃沈され、乗っていた1000人を超える15歳以下の子どもたちが犠牲となった「対馬丸」。桝太一が、対馬丸が攻撃される瞬間を別の船から見ていた方を取材。何が生と死を分けたのか。自身の体験と思いをカメラの前で初めて語った。那覇市首里で暮らす89歳の源河圭一郎さんはあの日、海に沈んでいく対馬丸を、別の船から見ていたという。沖縄に戦火が迫っていた1944年、学童疎開船「対馬丸」は子どもなど1788人を乗せ、長崎へと向かった。しかし、出港の翌日、米国軍の潜水艦から攻撃を受け深さおよそ870メートルの海底に沈んだ。犠牲者は1484人、そのうち1040人が、15歳以下の子どもだった。カメラの前で、初めて語ってくれた源河は「ささいなことが生死を分けた」という思いを、戦後80年となる今も抱き続けているという。それは「別の船に乗るよう」と言われるか言われないかの違いだと語り「運命の分かれ道というのは、本当に分からないもの」と述べていた。
太平洋戦争末期の1945年、米国軍が上陸し、住民を巻き込んだ国内最大の地上戦が行われた沖縄では住民9万4000人を含む、20万人余りが犠牲になった。その前の年の1944年8月21日、3隻の疎開船と、それを護衛する船、合わせて5隻の船団が、疎開するおよそ5000人の住民を乗せ、沖縄から長崎へ出港しようとしていた。当時子どもたちは「対馬丸は一番立派でかっこいい」と喜んでいた。一方、源河が乗ることになったのは、別の疎開船、「暁空丸」だった。船団は、長崎に向け出港。源河の証言によると対馬丸が先に出て、そのすぐあとを追羽化たちで他の船が出港したという。源河は母親と一緒だったが、多くの子どもは1人で乗船。しかし、寂しそうなそぶりはなく、疎開先での生活を楽しみにしてはしゃいでいるように見えたと話していた。出港から27時間、船団は、台風接近により荒れる海を進んでいた。子どもたちが寝静まった午後10時12分。突然、爆発音が響いた。米国軍の潜水艦、ボーフィン号が船団に向け魚雷9発を発射。そのうち4発が対馬丸に命中した。そのときの様子を生存者が絵に残していた。激しく火柱を上げながら、大きく傾く対馬丸。そのそばには、波に飲まれたりいかだにすがろうとする子どもたちの姿が描かれている。分かっているだけで、1040人もの子どもが、犠牲となった。源河さんはその壮絶な最期を300メートルほど離れた船から見ていた。当時を回想し「甲板におった。赤い色の柱がずっと、ほとんど瞬間的ね、そんなにいつまでも残っているわけじゃない。すぐ消えてしまうんで、そういうのを見ておったので、恐ろしいことになったな」と証言した。そして魚雷が命中してから僅か10分後。かなり大きな音がしてさっと沈んでしまったということだけは覚えているという。源河さんら暁空丸に乗っていた人々は、なすすべもなく泣きながら見ているしかなかった。源河さんは「助けたら今度、自分たちが危ないんだということをわれわれよく知ってますので、絶対にそういうことはしなかった。それが戦争というものの恐ろしさだとも思う」と語っていた。
なぜ、子どもたちを乗せた対馬丸が狙われたのか。米国軍が日本軍の無線を傍受したときの記録を見ると子どもたちを乗せる5日前、対馬丸は上海から那覇へ向け出港。このときは「疎開船」としてではなく、日本軍の兵士を運ぶ任務に就いていた。このときからすでに米国軍からマークされていたとの見方もあるが、狙われた理由は今も分かっていない。魚雷は源河が乗る暁空丸にも迫ってきた。源河さんは「魚雷が白波を立ててさっとそばを通り過ぎるのはあった。私たちの船は、米国の魚雷が当たらないようにジグザグ航路を取っていた。私たちは幸いだったとしか思えない」と証言した。対馬丸の沈没から2日後、ほかの4隻は米国軍に狙われながらも長崎に到着。しかし、源河が降りたあと暁空丸も那覇に戻る途中で撃沈された。源河さんはことし90歳、戦争で生死を分けるのは「ただの偶然だ」と話す。源河さんは「対馬丸に乗船した子どもたちは全部那覇市民。私は那覇市民ではなくて、首里市民でしたから、別の船に乗るようにいわれた。それだけの違い。運命の分かれ道というのは本当に分からない」と語っていた。直前まで、疎開先での生活を楽しみにしていた子どもたちの写真を見て「こういうのを見ているとかわいそうで」と話していた。最後に源河さんは「戦争を始めるのは大人、子どもじゃない。自分たちが正しいと思うからやってるんでしょうけど根本的に間違っている。人間って本当に何をするか分からない、ばかだなと思う」と語っていた。
取材を終えた桝太一は「自分たちが正しいと思ってやっているという言葉に重たい意味を感じている。80年後の今、当時はなんであんな間違ったことをしたんだと思うことは簡単だが、今の自分たちが実は同じような道を進もうとしているのかどうか、自分たちで気付くことは簡単ではない。今、正しいと思えていることが、あとから振り返っても本当に正しいと言えるのか、今の私たちの正義の在り方を疑って考えるところから始める。それこそがいまを戦前にさせないために、必要な姿勢ではないかと私は思っている」とコメント。モデル・長谷川ミラは「戦争っていうのは今現在進行形で起きていることで、そこは忘れてはいけない部分というところと、こういった対馬丸の事件を当事者の方が語り続けていくことの重要性と同時に、高齢化も進んでいると思うので、戦争のことを直接伝えていく機会というのは減ってしまっていると感じている。例えばドイツとかだと、街によっては、地下鉄の階段とかに第二次世界大戦の時のフレーズだったり、アンチ戦争というメッセージを見る。私も広島だったり長崎に行かせてもらった際は原爆ドームを見たりとか、そこで感じるものがあるが、東京だとそういった機会はないと思っていて、メディアという形で伝えるというのも一つだし、今メディアが多様化していく中で、若い世代にどう伝えるかというのが課題だと思うが、アニメーションだったり、サブスクの映画だったり、いろんな形でアンチ戦争ということを被爆国として伝えていくことが重要かなと思う」とコメント。社会学者・古市憲寿は「ソーシャルメディア時代なので、人々がいかに熱狂しないかということが大事だと思う。80年前の戦争でも決して軍部の暴走や頭のおかしい政治家だけが戦争を起こしたわけではない。むしろ民衆の熱狂によって戦争はより拡大化した。当時だったら新聞とか雑誌とかが大いに戦争を煽った。今だったらソーシャルメディアとかいろんなメディアが戦争を煽る危険性というのはあると思う。幸いなことに日本というのは今、民主主義の国であり、権力構造とメディア環境が分散している。これがすごい大事なことで、仮にSNSが熱狂したとしても、テレビがその防波堤になるかもしれない、テレビがおかしな事を言ってもSNSがそれは違うということを言えるかもしれない。戦争しようって頭がおかしい政治家が現れたとしても、メディアが違うと言うかもしれない。逆にSNSが盛り上がって戦争をしようとなったとしても、それは国会議員に止められるかもしれない。権力をちゃんと分散させておくということはすごい大事だなというふうに思う」とコメントした。
日本製鉄のUSスチール買収計画についてバイデン大統領による計画破棄の期限が2月2日から6月18日に延長されたことが明らかになった。この買収計画を巡っては今月3日、バイデン大統領が中止命令を出し30日以内、つまり2月2日までに計画を破棄しなければならないとしていた。しかし日本製鉄によると買収計画を審査してきたアメリカの対米外国投資委員会が、その期限を6月18日まで延長したという。期限延長を受け日本製鉄はアメリカの鉄鋼業界とすべてのステークホルダーにとって最善の未来を約束する。本買収の完了を引き続き目指すとコメントしている。日本製鉄は、計画中止の大統領令を不服として今月6日にバイデン大統領らを提訴している。
能登半島地震から1年。東京・墨田区にある「すみだ水族館」を散歩するペンギンたち。このペンギンたちは能登半島地震で被害に遭った「のとじま水族館」から避難してきた。地震で水槽の設備が破損し、ペンギン・イルカ・カワウソたちは全国9か所の水族館などに避難を余儀なくされた。中でも水族館を盛り上げてきたイルカの5頭が戻ってくることになった。飼育員の釘宮ひなたさんは相棒のイルカ・ニコちゃんと9か月以上会えていない。イルカたちがのとじま水族館に戻るのは12月5日。釘宮さんたちはその日に向けて準備を開始。釘宮さんはイルカをプールに戻した後に体調に異変がないかを確認する重要な役割を担当することになった。そして迎えた移送当日。今回の移送距離は約580km・9時間程かかるため、道中ではこまめに体調をチェックしていた。そして午後5時過ぎにトラックが到着。しかし大型トラックが入れるのは駐車場までなので、プールの手前までの約600mは軽トラックで運ぶ。振動で驚かさないようにゆっくりと走行し、すぐ隣には飼育員が付き添った。そしてプールがある建物に入ると、6人がかりで担架を持ち階段を上る。プールでは釘宮さんが待ち構えていた。ここからが釘宮さんの大事な役目が待っている。
避難先からのとじま水族館に帰ってきたイルカたち。プールに入ったニコちゃんに異変がないか釘宮さんが目を凝らし、呼吸に問題がないことを確認できた。釘宮さんは「石川県は地震や豪雨で被災されている方が多いと思うが、生き物たちの力を借りて皆さんを笑顔にできたらいいなって思う」などと話した。生き物たちの避難先の水族館では体調を細かくメモするなど飼育員同士で情報を共有していたという。のとじま水族館は3月をメドにイルカショーの再開を目指している。
明日から1週間の注目の予定ニュース。「阪神・淡路大震災から30年」など。
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エンディング映像。