- 出演者
- 笑福亭鶴瓶 杉原凜 吉村崇(平成ノブシコブシ) 本田望結 戸塚純貴 松田好花(日向坂46) 永尾柚乃 石塚瑶季(日向坂46)
2024年1月、東海道新幹線を運行するJR東海は重大な決断を下した。元日から起きた未曾有の出来事で日本中の交通機関は混乱していた。窮地を救うべく人知れず動いた東海道新幹線の総合指令所。人々の生活を考えた前例のない決断をする。
東京都内、極秘の場所に日本の交通を支える重要施設・新幹線総合指令所がある。東海道・山陽新幹線、のぞみ・ひかり・こだまの運行を司る。新幹線で起こるあらゆる問題の情報の全てが集まる。受けるのは指令と呼ばれる約40人のJR東海社員。新幹線の営業終了後、線路では始発までの間に整備作業を行う。指令員たちは24時間体制で勤務に当たる。そんな万全の体制で運行される新幹線に未曾有の危機が襲うことになる。
2023年12月末、指令員のシフトなどを管理する後方支援室。新幹線総合指令所の責任者・輸送指令長。災害・事故時に重要な判断を担う。緊急停止・運休・運転再開などを最終的に判断する。指令長も24時間勤務、3人で回している。JR東海指令担当課課長代理・増田さんは月に3回ほど指令長として勤務することもあった。2023年12月30日、東京。石井さんは長男と三男を連れて北海道・富良野へスキー旅行へ行く予定だった。中学受験を控えた二男は夫と留守番。2023年の年末、2024年の年明け穏やかに始まった新年。増田さんは後方支援室で管理業務をしていた。379本の運行が予定されていたが大きなトラブルもなく穏やかに過ぎていった。平穏だと思われた2024年の元日。地震が発生。新幹線の停電。最高速度285キロの東海道新幹線は揺れをキャッチすると自動で送電を停止させ速度を落とす。それが東海道新幹線早期地震警報システムTERRA-S。大阪や東京で震度3~4の揺れを観測しTERRA-Sが作動し新幹線が停まった。すぐに区間内の新幹線が安全停止したかを確認し電力指令からのアナウンスを各車両に伝えた。その地震とは2024年1月1日午後4時10分に発生した石川県能登半島を震源とする最大震度7の巨大地震・令和6年能登半島地震。TERRA-Sによって影響がないと判断された小田原-豊橋の列車は通常通り運行。復旧に向けて大事なのは地震時巡回指示書。地震による線路などへの影響をコンピューターが自動解析。この時、巡回の必要はなかった。すると指令長を中心に各部署のトップが集まり情報を交換。そして午後4時34分、東海道新幹線の運転が再開した。24分の遅延、提示ダイヤに戻すのが指令所の役目。
東海道新幹線で24分の遅延が発生。提示ダイヤに戻すのも指令所の役目。まずは折り返し整備を簡易なものにして折り返し時間を短縮。駅員に指示し、停車ホームを変更し渋滞を緩和。様々な方法で遅延を回復させていく。地震の被害状況も徐々に明らかになってきた。震源の近くでは余震が続き津波も発生した。北陸新幹線は長野-金沢間で運転見合わせ。各TV局も正月番組の放送をやめ地震被害を報道し続けた。東海道新幹線はさらなる窮地を迎える。
混乱を極めた2024年元日。夜7時頃、東海道新幹線は遅れを取り戻し定刻ダイヤに戻っていた。増田さんは指令長勤務に備え帰宅した。その後、自宅でグループチャットでやり取りをした。相手は幹部の2人。それは北陸新幹線の運休に備えての対策だった。緊急対応のやり取りは深夜まで続いた。翌1月2日午前6時頃、北陸新幹線は地震の影響で前日に引き続き長野-金沢間で運転見合わせ。増田さんは3時間早く出社。指令所には幹部2人が来ていた。結果的に米原駅にのぞみをとめる必要はないと判断。東海道新幹線は予定通りの運行。Uターンラッシュの1月2日で乗務員も車両もフル回転。午後3時過ぎ、北陸新幹線も運転再開。だが日本の交通が麻痺する出来事が起きる。その時、指令長を務めた増田さんは重要な決断をする。2024年1月2日、能登半島地震の対応をしてきた東海道新幹線。このあとさらなる決断を迫られる事態が起きる。
2020年3月、実は東海道新幹線はダイヤ改正し運行本数を限界まで増やした。計画されたのは数年前。当時、増田さんはダイヤを計画する部署にいた。世界一の過密ダイヤと言われていた東海道新幹線をさらに増やす。のぞみを2本増やす計画が始まった。まず1時間に2本増やしたダイヤを作成。すると東京駅の折り返しを短縮する必要があった。
40年ほど前まで列車・線路の多くは国が所有・管理していた。だが1987年4月から7つのJR各社に民営化。新幹線でケタ違いに利用客の多い日本の大動脈と言われるのがJR東海が管理する東海道新幹線。のぞみ・ひかり・こだま合わせて1日平均約46万人が利用する。3分おきに新幹線が発車。実は秒単位の発着時刻が決まっている。運転士が暗算で速度を調整するという。到着時刻は定刻の5秒前に到着。海外の長距離列車の場合、国や鉄道会社で遅延の考え方が近いフランスは5分以内は遅延としてカウントされない。ドイツは6分、アメリカは15分以内は遅延ではない。東海道新幹線の平均遅延時間は1.4分。1964年以来、乗客が死傷する列車事故は0件。
2020年に行った新幹線1時間に2本の増便計画。東京駅の折り返し時間を短縮する必要があった。そのため相談されたのは車内整備を行うエクスプレスドレッサー。乗客が降りるとすぐさま整備に入る。折り返しのため手作業で座席を反転、拭き掃除、掃き掃除、トイレ掃除など既にとんでもない早さで行っている新幹線の整備。それを2分も短縮する。しかもスタッフ数は増やせない。会議を重ね時短箇所を徹底的に洗い出し鋭角ラバーほうきを開発するなど工夫をこらし10分以内をクリア。
2020年の新幹線1時間2本増便計画。列車と設備も改良された。それが自動列車整備装置の改良。さらに駅のホームも改良。それが開通予告表示灯の装置。わずか数秒だが発車時間が短縮される。数秒を削る努力によって、のぞみが1時間に最大12本、混み合う時間では3分に一本の新幹線が発車できるようになっていた。
2024年1月2日、Uターンラッシュだったため、のぞみは1時間に12本のダイヤでフル回転。その中、1本故障のため使えない車両が出た。ダイヤが乱れないよう車両運用を考える運用指令。この日、運用指令のトップが白坂さんだった。彼はこの日のキーマンになる。一方、北海道・旭川空港。午後3時過ぎ、富良野でスキー旅行を終えた石井さん家族が空港へ。午後4時30分発の羽田空港に乗り、定刻通り出発した。午後6時前、大きなトラブルはなかった。だが、羽田空港で飛行機が炎上した。
2024年1月2日のUターンラッシ、羽田空港で飛行機が炎上した。同じ頃、羽田空港上空では定刻を過ぎても着陸態勢に入らない。キャビンアテンダントが乗客の不安を和らげるためか頻繁にアナウンスをしていたという。羽田空港に着陸した乗客乗員379人を乗せたJAL516便が海上保安庁の輸送機と衝突した。これにより海上保安庁の輸送機にのっていた6人中5人が命を落とした。彼らは能登半島地震の被災者に救援物資を輸送する予定だった。能登半島地震の翌日の衝撃的な事故に日本中が息をのんだ。そして6時30分頃、乗客乗員全員脱出が報じられた。後に分かったことだが日本航空のキャビンアテンダントが的確な指示を出しパニックをコントロール。脱出口8つのうち3つのドアからわずか11分で379人が無事脱出させていた。羽田空港には4本の滑走路があるが全て閉鎖され、飛行機は1本も飛ばない。台風7号和歌山県上陸し、近畿地方・東海地方で大きな被害が生じUターンラッシュの計画運休を実施した。2023年8月16日、移動をずらした人たちが新幹線を利用するはずだったが東海地方に線状降水帯が発生し東海道新幹線円沿いの大雨で三島-静岡間で約6時間、運転を見合わせた。東京駅には乗客が改札内のコンコースに殺到し大混雑。増田さんはあのような事態は避けたいが、かつて見たことのない事故で影響を受ける人はどれほどか考えた。当直長の白坂さんを呼び出し、あることを告げた。それは東海道新幹線では前例のないことだった。事故が起きた羽田空港では情報を求める人で溢れていた。役に立てないかと増田さんは前例のない決断をする。
増田さんの決断は羽田空港の閉鎖に伴い地方に変える予定だった人や東京に戻る予定だった人を救う臨時の新幹線。しかし輸送ピークのこの日、乗務員・車両もフル稼働していた。乗務員・車両を用意しなければならないため少し前に先手を打っていた。白坂さんに手配できるか確認するよう指示していた。飛行機の影響で臨時列車を出すのは前例がない。白坂さんはすぐに動いた。もし臨時列車を出す場合、東京-新大阪の下りだけだと翌日、車両・乗務員が足りなくなる。出すのは上り・下り両方必要。この日はUターンラッシュ。下りは少ないため回送列車が多く設定されていた。営業車は運転士・車掌が2人の計3人が必要。回送車は運転士・車掌1人ずつで、もう1人車掌を手配できれば下りは臨時列車にできる。上りは全て営業列車で臨時列車を出すには新大阪で新たに3人手配しなければならない。さらに車両も新たに手配しないといけない。そこで向かったのは車両運用を管理している後方室。実は新幹線には乗客が乗るためのダイヤとは別に裏のダイヤが存在する。それは整備点検に回すためのダイヤ。JR東海は131本の新幹線を所有しているが、走行距離で整備点検内容が違い整備点検の車庫も違う。整備・点検・修理に応じて入れる車庫を決めているため複雑なパズルを組んでいる。
1964年、東海道新幹線が開業。東京-新大阪間で約4時間で結んでいたが、今では最速2時間21分。当時は1日約60本の運行。現在は平均383本。2003年10月1日に東海道新幹線に品川駅が開業。60年以上の新幹線の歴史で考えられない光景がたくさん。食事はお弁当だが、1964年開業当時はビュッフェ車があった。さらに1974年には食堂車が誕生。車内販売やカフェテリア車両でお弁当や飲み物が買えた時代も。1985年にデビューした2階建て新幹線。人気だったのは景色を楽しみながら食事ができた食堂車。1965年に公衆電話が設置され列車番号が分かれば外から乗客を呼び出すことも可能に。2021年に公衆電話は終了。さらに当時は普通に喫煙できた。禁煙車が初めて導入されたのは1976年。その後、禁煙車両が増加され2007年には喫煙ルームが設置されたが2024年には全面禁煙。新幹線20周年記念イベントでは車内にはひかりさんだらけに。飲料メーカーとのコラボでスポーツジム新幹線。極めっつ来はディスコ新幹線。
変わり種新幹線の極めつきはディスコ新幹線が登場。アイドルのライブイベントも開催。バラエティーロケやりたい放題の時代もあった。1992年にのぞみがデビュー。車体の軽量化が図られ最高速度は270km/hに。東京-新大阪間を約2時間30分で移動することが可能になった。16両編成の新幹線は約400m。定期検査で車体の安全を確保。深夜には線路・架線のメンテナンス。これらにより新幹線は秒単位の運行を可能にしている。現在はビジネスパーソンに便利な車両や個室ワーキングスペースが完備されており、今後は個室タイプ、半個室タイプの座席を導入する予定。
新幹線の整備や修理などのスケジュール、いわゆる裏のダイヤ。それを組んでいるは後方質の社員。相談するも明日もピークで臨時列車を難しい断られる。翌日1月3日は輸送ピーク。増田さんは部長の加賀山さんに相談した。白坂さんは乗務員を手配する大阪第一運輸所へ連絡した。実は新大阪-東京の最終列車が出た後に東京-新大阪の列車がある。その乗務員は大阪で宿泊し翌朝の東京行きに乗務する。たまたま、その乗務員が翌朝の常務に備え運転などはせずに東京へ移動する予定だった。つまり、この日に東京行に乗務しても問題はなく奇跡的に臨時の乗務員を手配できた。
臨時の新幹線を出す前例のない決断。一方、羽田上空では成田空港や茨城空港もあったが石井さんが乗る飛行機は中部国際空港に向かうことになった。増田さんの元にJR東海新幹線部門のトップから伝言が。存在しなかった臨時列車のダイヤが出来上がった。午後7時50分、SNSに臨時列車を発表。こうして異例の臨時列車を午後9時42分、東京発-新大阪行き、午後9時50分、新大阪発-東京行きの準備が整った。その時がやってきた。
多くの人の想いを乗せた東海道新幹線の臨時列車。予約ができないため全席自由席。石井さんたちが中部国際空港に到着し荷物を待っていたのは夜9時頃、名古屋発の最終新幹線は夜10時12分。東海道新幹線が臨時列車を出すことを知った。それは本来の最終列車より20分以上遅い発車だった。こうして多くの人が臨時列車で家に帰る事ができた。元日の地震発生から32時間、最終の臨時列車は東京駅に到着した。ベテラン社員は夜を徹して1月3日の車両運用計画を作り直した。その後も羽田空港の事故のあった滑走路は閉鎖されたため東海道新幹線は1月7日まで臨時列車を出した。実は交通機関の助け合いは他にもあった。
「良いこと悪いこと」の番組宣伝。
多くの人々を救った東海道新幹線の臨時列車。羽田空港の事故を受けJR東日本・JR西日本、JR北海道も1月3日から臨時列車を運行。一方、日本航空は2024年の大雨のとき新幹線運休を受けて臨時便を飛ばした。自然災害や大事故により移動手段を失うことは多々ある。一方、困っている人を想い自分にできることをできるかぎりやろうとする人も多くいる。そんな氏名をもった人たちがいることを知ってほしい。
今回の物語の主役は東海道新幹線。新幹線や駅のシーンをどのように撮影したのか。8月末のある日、ヘルメット・保護メガネを着用するのは俳優・エキストラ、スタッフ総勢500人。向かったのは新幹線の車両基地。普段は整備や点検などを行う重要な場所。今回の再現ドラマはJR東海全面協力の元、かつてないスケールで撮影を敢行。車内シーンはスタジオセットではなく本物の新幹線1両まごると貸し切り。さらに東京駅も貸し切り。最終列車の運行終了後の午前0時半から撮影。撮影シーンの設定は1月。全員、冬服を着て演技。エンディングテーマエルトン・ジョンとブランディ・カーライル「天使はどこに」のMVが流れた。